現在のように閉塞感に覆われた時代のマーケティングはどうあるべきでしょうか。 その前に、そもそもこの息苦しさの正体とは、一体何なのでしょうか。
現在は先行き不透明で変動の激しいVUCAの時代です。さらに、想定外のパンデミックにも見舞われ、事態は深刻さを増すばかり。
しかし、この閉塞感を産み出しているのは、果たしてそれだけでしょうか。
本稿では、日本に漂う閉塞感の原因を探り、日本式ビジネスの対極ともいえる「インフォーマル経済」の在りようを眺めながら、この時代のマーケティングについて考えてみたいと思います。
「真面目さ」は不寛容に通じる?
仕事柄、さまざまな国の人と接していると、金銭感覚もずいぶん違うものだと感じることがあります。
例えば、友だち同士で外食したときに食事代を払うのは誰か。 日本人なら、割り勘にする人が多いかもしれません。「貸し借りなし」は気持ちがいいし、対等性も保てるような気がして、筆者も大抵は割り勘です。
ただ、そうではない人たちもいます。 そのとき一番お金を持っている人、誘った人、目上や年上、なぜかその日誕生日の人・・・等、誰が払うかは国や文化、個人、あるいは状況によってずいぶん違うものです。
お金の貸し借りもそう。 筆者は「できるだけお金の貸し借りは避けるように。ただ本当に相手が困っているとき自分に余裕があったら、返ってこないものとして、身の丈に合った額を差し出しなさい」と親に言われて育ちました。 この辺が日本人の最大公約数的な在り方かもしれません。
一方、誰であれ困っている人がいたら、そのときそこに居合わせた人たちが、その人との関係にかかわりなく少額ずつ出し合い、その人が急場をしのぐ手助けをする―そんな文化を目の当たりにしたこともあります。
日本語学校に勤めていたころ、留学生たちにはそういう「互助システム」がありました。 国の家族が病気になってしまったとか、アルバイトをクビになってしまったとか、交通事故に遭ったとか、そんな仲間のために、学生たちは決して豊かとはいえない自分の懐具合と相談しながら、少しずつカンパする。そんなことが常態化していました。
中にはパチンコ依存症になってしまった留学生もいましたが、窮地に陥った理由がなんであれ、「自己責任」とか「自業自得」という類の言葉は不思議と耳にしませんでした。
「どうして、そんなに寛大なの?」 と聞いてみたことがあります。すると、 「だって、先生、自分だってそうならないとは言い切れないでしょう?誰だって失敗しようと思ってするわけじゃないんですから。そんなとき、たまたまそこに居合わせた人に助けてもらうかもしれないじゃないですか」
そう話した学生の故郷では、お金を貸す人の方が借りる人に対して、「借りてくれてありがとう」とお礼を言うのだとか。貸したお金がすぐに返ってこないどころか、返ってくるかどうかも怪しいことを十分承知の上で。
ところが、何十年も経ってから、思いがけないときにそれが何倍にもなって返ってきたりする。そこにはヒューマニズムの域を越えた、ある種の「保険」としての意味もあるようです。 それは、互いに生き抜くための逞しい知恵なのかもしれません。小さく回して即時的に貸し借りを清算しようとする今の日本とは、全く異質のスケール観です。
良し悪しは別として、こうした在り方は、「真面目に努力して、誰にも迷惑をかけないようにリスク管理を万全にすること」が暗黙の社会規範になっていて、そうした自己責任を前提に回っている日本社会の在り方とは対照的です。
私たちの社会では、うっかりリスク管理に失敗して周囲に迷惑をかけることになったら、自己責任が果たせない人間として非難され、「考えが甘い」と真面目にやってきたことさえ否定されかねません。
それに、貸し借りを清算する時、ギブとテイクの等価性にどちらかが疑問をもてば、「どうして自分ばかりが損をしなければならないのだ」「どうしてあの人ばかりが得をするのだ」という不満が噴出しないとも限りません。 それは、「がんばっているのは私だけだ」「私はいつも損な役回りばかり押し付けられている」という強迫観念にもつながります。
私たちが日頃感じている息苦しさは、このようなところからも生じているのではないでしょうか。
ユルくてしたたかなビジネス
最近、面白い本に出会いました。 小川さやか著『チョンキンマンションのボスは知っている』。*1
著者は文化人類学者です。チョンキンマンション(重慶大厦)とは著者がフィールドワークで滞在した香港のマンション。そのマンションに住むタンザニア人の「ボス」が暮らすコミュニティの日常やビジネスを通して、彼らが営む「アンゴラ経済」の状況が明かされていきます。
他者の多様性が産み出す偶発的な助けを借りる
ここでは、チョンキンマンションのボスが中心となって結成したタンザニア香港組合(Tanzania Hong Kong Union)を通して、「互酬性」について考えてみたいと思います。
この組合が結成される契機となったのは、香港に滞在していたあるタンザニア人の死でした。多くのアフリカ諸国の出身者の間では、旅先や出稼ぎ先で亡くなった者は故郷で埋葬されるべきだという共通認識があります。 ところが、タンザニアにすむ家族には彼の遺体を母国に移送するだけの経済力がありません。 そこで、ボスたちはグループを作り、香港と中国に滞在していたタンザニア人たちに寄付を募り、彼の遺体を母国に輸送するというミッションを遂行しました。
これを契機に組合が発足します。2013年にはWhapApp(Lineに似たコミュニケーションツール)にページを開設し、北京市のタンザニア大使館にも正式に通知しました。
この組合はその後さらに中国広州市で結成された組合や、マカオ、マレーシア、タイのタンザニア人コミュニティー、さらにはウガンダ組合、ケニア組合とも連携をとり、巨大なネットワークを形成して、東アフリカ共同体香港組合の結成につながります。
こうして、組合員の誰かに不測の事態が起きたときには、アジア諸国に点在する東アフリカの人々から寄付が集められるシステムが構築されています。
この組合の構成員は香港とアフリカ諸国を流動的に往来する人々です。したがって、組合への継続的な貢献が期待できない人や偶然出会ったばかりの人、あるいは互いに「信用できない」と思っている人々さえいます。
それなのに、彼らは組合活動への実質的な貢献度も、組合に頼らざるを得ない事態を招いた原因も問うことはせず、できる範囲で協力します。 彼らは、助け合う人間を区別・評価する基準も、助け合いの基準・ルールのどちらも明確化していないのです。 それは、筆者が日本語学校で見聞きした留学生たちの態度と重なります。
他者の事情には踏み込まず、厳密な互酬性やそれにまつわる義務、責任を問わずに、ネットワーク内の人々がそれぞれ「ついで」にできることをし、気楽に助け合いながら緩やかに繋がっています。「ついで」にやってもらうことなので、助けてもらった方も過度の負い目を感じることがありません。
「誰でも助ける」のは、「同胞は助け合うべきだ」という価値観とも違い、自分が困ったときに頼る人も多様な方が都合がいいという狡智です。
そして、こうした在り方は彼らがしたたかに営むシェアリングエコノミーの仕組みにも生かされています。それはどういうことでしょうか。
評価システムの排除
チョンキンマンションのボスたちは「TRUST」と呼ばれるデジタルシステムを使い、独自のシェアリングエコノミーを営んでいます。TRUSTは、香港のブローカーとアフリカ諸国のブローカー・顧客を結びつける仕組みであり、フリマサイトのようなもの。
買い手はTRUSTを通して香港に渡航しなくても中古車を仕入れることができ、売り手は自分の顧客リストよりずっと多くの買い手を相手に、香港でみつけた中古車を安定的に売りさばくことができます。
TRUSTはまた、インフォーマルな送金システムを通して、電子マネーによる国境を越えたクラウドファンディングを実現しています。 その目的は、円滑に仕入れ費用を調達すること、そして商品も販路もみつけられなかった者に対するサブシステンス(最低限の生存を支える基盤)を保証することです。
TRUSTも、SNS上に取引き内容が記録され、開示され、追跡できるという点では、一般のインタ―ネット上の取引きと変わりません。 ただ、他の専門的なビジネスサイトと一線を画しているのは、プラットフォームで自動的に計算される評価システムを採用していない点です。
評価システムといえば、少し前に注目されたのが、アリババ傘下の蚂蚁金服(Ant Financial)グループの芝麻信用社(Sesame Credit)による信用スコアです(図2)。
芝麻信用は、EC 大手タオバオ等でのネットショッピングの取引情報や政府から提供される学歴情報、公共料金の支払記録等のビッグデータを収集し、AIで個人の信用スコアを自動算出し、そのスコアに応じたサービスを提供しています。*2P.19
批判的な意見もあるものの、今後はこうした評価システムの導入が加速するでしょう。
ここで問題になるのは、こうした信用システムの確立が新たな「競争」を巻き起こすということです。評価スコアのアップは顧客に多くのメリットをもたらします。そのため、学歴や業績、有力者とのコネクション等、様々な分野で信用スコアをアップさせるための競争が生じ、その結果のランク付けによって人々は序列化されることになるでしょう。
そうした状況下では、誰もがチャンスと同時にリスクを抱えることになります。スコアによって差別化されるだけでなく、たった一度の失敗が取り返しのつかない汚点となって、評価スコアを低下させてしまうおそれがあるからです。
そうした競争やプレッシャーがさらなる閉塞感を招いてしまうのではないかと考えるのは、杞憂でしょうか。
「もっと自由に、もっといい加減に」を実現するマーケティング
マーケティングの本質とはなんでしょうか。
かのドラッカーは、マーケティングとは「顧客の観点から見た企業そのものである」と述べています。*3No.1194
マーケティングとは、人々のニーズを探り人々の幸福に寄与しようとするもの。そして、その方向性は企業の在り方そのものです。
重い空気に閉ざされ、息苦しさを孕んだこの社会で今求められているものは何でしょうか。
モノやコトや情報が本当に必要とする人に自然に回っていき、他者の失敗や落ち度に立ち入らず、「ついでに」助けてくれる人が必ずいる。
私たちとは対極にある社会を生きる人々の知恵は、その答えを示唆しているのではないでしょうか。
*1:小川さやか(2019)『チョンキンマンションのボスは知っている―アンゴラ経済の人類学』春秋社(電子書籍版
*2:経済産業省(2018)「[キャッシュレス・ビジョン]