マクルーハンの「熱いメディア」「冷たいメディア」とは? 広告戦略に生かしたい基礎知識

1960年代に世界的な話題となった文明批評家のひとりに、マーシャル・マクルーハンという人がいます。

「メディア論」を始めマクルーハンが残した難解な各書籍や論文は今でも様々な議論を呼んでおり、特に注目されているのが「熱い(hot)メディア」と「冷たい(cool)なメディア」があるという概念です。

マクルーハンの「メディア論」から、現代の広告業界が参考にしたいポイントをご紹介します。

マーシャル・マクルーハンと「メディア論」

マーシャル・マクルーハンはカナダ出身の英文学者で、1946年にトロント大学教授となった文明批評家でもあります。
マクルーハンの展開する「メディア論」は今でも多くの学者の研究対象とされています。
中でも、1964年に刊行した「メディア論」は当時世界中で話題になりました。

マクルーハンは活版印刷後の文明のあらゆるものを「メディア」であるとしています。口語から印刷された言葉に始まり、衣服、住宅、自動車…そして兵器まで多くのものを「メディア」と位置づけています。

中でも「メディアはメッセージである」という言葉は当時世の中を賑わせました。

邦訳では400ページ近くにわたって難解な口調で語られているマクルーハンの「メディア論」ですが、その中でも「熱い(hot)メディア」「冷たい(cool)メディア」という概念は今でも研究の対象になっています。

同時に、現代の広告についても興味深い示唆を与えています。ちょっとしたなぞなぞのような話になりますが、その一端を覗いてみましょう。

「ホットなメディア」「クールなメディア」

マクルーハンは、メディアは「ホットなメディア」と「クールなメディア」に分けられ、それぞれ受け手に異なる作用をもたらすと語っています。

ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。
(中略)
熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。

<引用:M.マクルーハン「メディア論」みすず書房 p23>

さらに、熱いメディアは”高精細度”である、冷たいメディアは”低精細度”だとしていて、
マクルーハンは以下の「メディア」を例に挙げています。

熱い(hot)メディア=高精細度、低参与性 冷たい(cool)メディア=低精細度、高参与性
ラジオ、写真、映画、講義、表音アルファベット、書物 電話、テレビ、漫画、話される言葉、象形文字、演習、対談

映画とテレビについては時代背景の違いもあると考えられ様々な議論が今でもありますが、それ以外の「熱いメディア」と「冷たいメディア」のそれぞれの共通点は何でしょうか。

マクルーハンは、このように述べています。

「熱いメディア」とは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」というのはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。

<引用:M.マクルーハン「メディア論」みすず書房 p23>

いかがでしょうか。少しわかりやすくなったでしょうか。

マクルーハンの表現を補うならば、写真や映画はそこで「視覚的に完結された世界」と言えるかもしれません。一方で電話や話し言葉は、聞き手が相手の言いたいことを想像力をもって補ってようやく成立するものと言えるかもしれません。対談もそのように考えることができます。

また、「参与」という意味からしてわかりやすいのは「講義」と「演習の」の関係です。演習のほうが、受け手の参加度が高いというのは納得できるところでしょう。

人を「熱く」するメディア、「冷たく」するメディア

では、「熱いメディア」「冷たいメディア」は受け手にどのような影響を与えるというのでしょうか。

マクルーハンはこう述べています。

熱いメディアと冷たいメディアということばを使えば、後進諸国は冷たく、我々は熱い。都会人は熱く、田舎人は冷たい。

<引用:M.マクルーハン「メディア論」みすず書房 p28>

もちろん人間性が熱い、冷たいということではありません。

そうではなく、「熱いメディア=低参与性」「冷たいメディア=高参与性」ということを考えると、この言葉は感覚的に理解できるのではないでしょうか。

後進諸国や田舎では、得られる情報が「低精細度=高参与性=冷たいメディア」です。 逆に、先進諸国では、得られる情報が「高精細度=低参与性=熱いメディア」です。

冷たいメディアに囲まれた人は「熱く(低参与性に)」なり、熱いメディアに囲まれると「冷たく(高参与性に)」なる、といった具合です。

インターネットは「熱い」?「冷たい」?

では、ここでインターネットについて考えてみたいと思います。 インターネットは「熱いメディア」でしょうか?「冷たい」メディアでしょうか?

筆者は、運用次第でどちらにもなりうると考えています。

電通などによると、2021年のインターネット広告費の内訳は以下のようになっています(図1)。

図1:インターネット広告費の内訳

そして注目したいのは、SNS広告費の伸びです。前の年に比べ134.3%となり、インターネットでのソーシャル広告費全体の35%にのぼっています(図2)。

図2:インターネット・ソーシャル広告費の内訳

近年SNSが広告媒体として大活躍していることをご存じの人は多いでしょう。

SNSは「熱いメディア」か「冷たいメディア」か?

筆者は「冷たいメディア」と考えます。

例えばTwitterを例に取ると、限られた文字数でPRを迫られます。見た人は想像力を働かせなければならないことのほうが多いのではないでしょうか。 TikTokもそうでしょう。短い動画から、視聴者は多くを知ろうとして想像力を働かせます。 また、どちらもその投稿に対してリプライ、リツイートやコメントという形で「参与」できるという特徴もあります。

もちろん、他のインターネット媒体も、使い方次第で「熱いメディア」にも「冷たいメディア」にもなり得ます。

ただ、SNS広告の台頭は、「冷たいメディア=低精細度=高参与性」が近年の広告として有用であることを示していると言えるでしょう。

情報がシャワーのように降る現代で

マクルーハンは、このようにも述べています。

われわれは深層関与とか統合表現の可能性を秘めた冷たい原始的なものにこそ前衛を見るのである。
テレビの時代には「ハード」な売り方や「ホット」なやり方は喜劇以外のなにものでもなくなる。テレビという斧の一撃ですべてのセールスマンの死が生じ、熱かったアメリカ文化はこれまでに経験したことのない冷たい文化に変わってしまった。

<引用:M.マクルーハン「メディア論」みすず書房 p28-29>

「冷たい文化」というのはマクルーハン的には「受け手(個人や消費者)の参与性が高い文化」のことです。

「熱い」媒体が普及しきった結果の現象と言えるでしょう。
これは、現代の広告業界に起きている出来事と同じではないでしょうか。

一世を風靡した批評家の言葉は、「冷たいメディア」の必要性が叫ばれている現代にも通じる「予言」でもあると見ることができます。

この記事を書いた人

清水沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。取材経験や各種統計の分析を元に関連メディアに寄稿。