カスタマーエクスペリエンス(CX、顧客体験)という言葉がよく使われます。
しかし、“顧客体験”の日本語訳では原語のニュアンスをつかみ切れていないこともあり、直感的には理解しにくい概念ではないでしょうか。
にもかかわらず、“わかった気”になって(企画立案時などに)便利な言葉として使うことには、弊害もあります。
本記事では、原語のニュアンスを丁寧に拾いながら、今あらためて理解したい「カスタマーエクスペリエンス」を解説します。
カスタマーエクスペリエンス(CX)が生まれた背景と問題
意味を解説する前に、カスタマーエクスペリエンスの言葉が生まれた背景や、安易な使用による問題について、お話させてください。
これらの情報を踏まえたうえで意味を捉えたほうが、スムーズに理解しやすいためです。
言葉が生まれた背景
「カスタマーエクスペリエンス」は1990年代の欧米で生まれた概念です。
1994年のルイス・カルボンとステファン・ヘッケルによる論文『Engineering Customer Experiences』に、カスタマーエクスペリエンスの言葉が確認できます。
カスタマーエクスペリエンスの考え方は、製品志向から市場志向、そして顧客志向へとマーケティングが成熟していく時期、新しいコンセプトとして登場しました。
商品・サービスのコモディティ化が進むなか、プレミアム(付加価値)になり得るのは(商品・サービスではなく)エクスペリエンスである、という主張です。
その後、1999年に相次いで出版された書籍、B.J.2 パイン・ J.H. ギルモア著『Experience Economy』と、バーンド・H. シュミット著『Experiential Marketing』にて、世界的に広く知られるようになりました。
日本での初期の訳語は「経験」
前述の2冊は、日本では2000年に以下のタイトル名で翻訳・出版されています。
- B.J.2 パイン・ J.H. ギルモア著
『経験経済―エクスペリエンス・エコノミー 』
(電通「経験経済」研究会 訳) - バーンド・H. シュミット著
『経験価値マーケティング―消費者が「何か」を感じるプラスαの魅力 』
(嶋村 和恵・広瀬 盛一 訳)
2000年時点での翻訳では、原題の「Experience / Experiential」が【体験】ではなく、【経験 / 経験価値】と訳されています。
カスタマーエクスペリエンスを理解するうえでは、この【経験】の意味するところが重要です(詳しくは後述します)。
しかし、日本国内では言葉が汎用性を持つのと引き換えに、肝のニュアンスが抜け落ちてしまったように感じます。
安易な言葉の使用が生み出す問題
原語のニュアンスが抜け落ち、「CX=顧客体験、顧客の体験」と単純置換の解釈でカスタマーエクスペリエンスの言葉を使うことには、問題があります。
「顧客によい体験を提供する」ように努めるのは、企業・ブランドとして当たり前だからです。厳しい言い方をすれば、“当たり前のことを、かっこよく言い換えた”だけで、中身がありません。
筆者自身、企画書などに「カスタマーエクスペリエンス」と書きたくなったときには、立ち止まるようにしています。
具体化できていない部分を、あいまいな言葉(かつ耳あたりがよさそうな言葉)でごまかそうとしていないかと、自問します。
あるいは、カスタマーエクスペリエンスの表現で、真意が正しく伝わるだろうかと、追考します。
「ビジネスの言葉は、できる限り正確に・緻密に扱いたい」という観点から見ると、カスタマーエクスペリエンスは注意したい言葉です。
「カスタマーエクスペリエンス(CX)」とは何か
では、カスタマーエクスペリエンスという言葉を、どう理解すればよいのでしょうか。
概念を形成してきた専門家たちの文献にあたりながら、誤解しやすい3つのポイントを解説します。
ポイント1:経験の「あとに残る印象」
エクスペリエンスとは何か、前述の論文『Engineering Customer Experiences』では以下のとおり定義されています。
By "experience," we mean the "takeaway" impression formed by people's encounters with products, services, and businesses—a perception produced when humans consolidate sensory information. *1
エクスペリエンスとは顧客が“持ち帰る”印象※ のことで、商品・サービスや企業との出会いによって形成される。それは、人間の感覚的な情報の集約によって生み出されたパーセプション(知覚、認知や見解)である。(筆者訳)
※補足:原文では「the "takeaway" impression」と表現され、"takeaway"は日本語でいう「テイクアウト」のこと。
ここで押さえたいのは、
「顧客の体験そのものではなく“テイクアウトされる印象”、すなわち行動や感情や思考の経験の“あと”に残る印象がエクスペリエンスである」
という視点です。
この点は、初期の日本語訳である【経験】のほうが、原語のニュアンスに近いといえます。
【体験】は“実際に身をもって経験する”という生々しさを感じさせますが、【経験】は体験を通じて得た教訓や知識まで含有するニュアンスがあるためです。
ポイント2:行動だけでなく思考や感情も含む
次に、「CX=顧客体験」の訳語から、以下の連想をする方も少なくありません。
- 体験型
- 参加型
- インタラクティブ(双方向)
- リアル体験の価値
たとえば「CXを作るために、体験イベントを企画しよう」といった具合です。
ですが、カスタマーエクスペリエンス自体には、“顧客の能動的な体験を重視する”といった意味合いはありません。
行動を伴う体験のみならず、生じた思考や感情、感覚などの蓄積を指す言葉が、カスタマーエクスペリエンスです。
別の言い方をすると「心・脳・体のあらゆる反応とその記憶」が含まれる概念となります。
わかりづらいポイントであるので、具体的イメージの参考として、前述のシュミット著『経験価値マーケティング』より、5つのエクスペリエンスの分類をご紹介します。
分類 | アプローチの方向性 |
---|---|
1. SENSE 感覚的経験価値 |
視覚、聴覚、触感、味覚、嗅覚を通じて感覚的経験価値を生み出すために感覚に訴える |
2. FEEL 情緒的経験価値 |
ブランドと結びついた気分や感情の情緒的経験価値を生み出すために顧客の内面にあるフィーリングや感情に訴求する |
3. THINK 創造的・認知的経験価値 |
顧客の創造力を引き出す認知的、問題解決的経験価値を通して顧客の知性に訴求する |
4. ACT 肉体的経験価値とライフスタイル全般 |
肉体的な経験価値、ライフスタイル、他の人との相互作用に訴える |
5. RELATE 準拠集団や文化との関連づけ |
自分の理想像や特定の文化やグループに所属しているという感覚を持ってもらう |
行動体験だけでなく、感覚・感情・思考・ライフスタイル・価値観……と、カスタマーエクスペリエンスは多岐にわたる概念であることが、つかめてきたでしょうか。
ポイント3:あらゆるタッチポイントを含有する
3つめのポイントは、カスタマーエクスペリエンスは「いつ」「どこで」生じるものなのか、についてです。
答えは、
「あらゆるタッチポイントで、顧客が製品を購入するずっと前から始まり、購入後もずっと続く」
となります。
マーケティングの権威であるフィリップ・コトラーの言葉をご紹介しましょう。
CXという概念は、製品イノベーションの狭い焦点を拡大することを目的とするものなので、CXを広い視野でとらえることが不可欠である。CXは購入体験や顧客サービスだけを意味するものではない。それどころか、顧客が製品を購入するずっと前から始まり、購入後もずっと続くのだ。CXは顧客が製品に触れる可能性のあるすべてのタッチポイント──ブランド・コミュニケーション、小売体験、販売員とのインタラクション、製品の使用、顧客サービス、他の顧客との会話──を包含している。顧客にとって意味があり、しかも忘れがたいシームレスなCXを提供するためには、企業はこれらすべてのタッチポイントを統合しなければならない。
重要なカギとなるのは、「すべてのタッチポイント(顧客接点)を統合して、カスタマーエクスペリエンスを戦略的にマネジメントすること」です。
単発の施策ごとにCX向上を掲げるのではなく、部門横断型プロジェクトを立ち上げて、組織全体で取り組むことが求められます。
さいごに
本記事では「カスタマーエクスペリエンス」をテーマにお届けしました。
最後に近年の動向について触れておくと、“デジタルテクノロジーを活用した、新しいカスタマーエクスペリエンス”への注目が高まっています。
具体的には、マーケティングオートメーションツールの導入、精密なパーソナライズ(顧客一人ひとりに最適化したコミュニケーションや商品・サービスの提供)などが挙げられます。
なぜ今それらが重要なのか、2022年4月に日本語版が出版された『コトラーのマーケティング5.0』にて、詳しく解説されています。以下は一部引用です。
新しいCXにおける人間とマシン
ハイブリッドのCXでは、人間の役割とマシンの役割が等しく重要である。人間とマシンは得意分野が異なるだけでなく、補完し合う関係でもある。コンピューターのスピードと効率のおかげで、人間はある種の仕事から解放され、空いた時間で想像力が求められる他の活動を行うことができる。自動化は人間の創造性を次のレベルに押し上げる手段なのだ。その意味で、テクノロジーはイノベーションを実現可能にし、加速するものと認識されなければならない。テクノロジーはそれが発明されたそもそもの目的、つまり、人的資源の解放に資するのである。
テクノロジーの活用は、単に自動化・効率化を実現するのみならず、「人間の創造性」を押し上げる役割を果たすのです。それは、顧客により高い価値を届けることにつながります。
「人間とマシンのハイブリッドCX」の視点を持ちながら、これからのカスタマーエクスペリエンス戦略を考えていただければと思います。
*1:Lewis P Carbone,Stephan H Haeckel(1994)『Engineering Customer Experiences』