「自分を棚上げにして厳しいことを言う」のは、実は素晴らしい上司という話

「自分のことは棚に上げて、厳しいことを言う」
組織の中で嫌われそうな上司といえば、おそらくこんなタイプでしょう。

しかし、自分を棚上げするというのは、上司としては時に素晴らしいことなのです。
それはなぜでしょうか。
以下、一緒に見ていきましょう。

ある日の驚きと発見

筆者が会社員だった頃の、ある日のことでした。
隣の席で現場と連絡を取っていた先輩が、「それは無理では?」と思う指示を出していたのです。

そして電話を切った彼は、こう言いました。
「まあ、俺にはそんなことできないけどね」。

筆者の頭の中は「???」です。彼は決してパワハラなどする人ではなく、後輩の面倒見も非常に良い人だからです。
ただ、こう続けました。
「でも、自分を棚上げしないと下は育たないから」

そこで、なるほど、と筆者は膝を打ちました。

自分棚上げがもたらす「ピグマリオン効果」

さて、この先輩は何を意図していたのでしょうか。

自分ができないくせに、後輩にそれをやらせる。いわゆる「自分を棚上げする」ということで、そんな上司は嫌われるだけだと思うかもしれません。
しかしそれが悪いだけでなく、ときにはポジティブに働くことがあるのです。

いくつかの理論をご紹介していきたいと思います。
「ピグマリオン効果」という言葉を聞いたことのある方は多いことでしょう。
教育心理学の用語で、他者から期待をかけられた人の成績が向上するという現象のことをいいます。

実際にピグマリオン効果については、このような実験結果があります。
ある大学で250名の新入学生を20人程度の12クラスに分け、さらに、この12クラスを年度ごとに担当教員が同じ科目で受講曜日が異なるAクラス、Bクラスに分けます。

そして、片方のクラス群にのみ「年度末に行われる学習成果全体発表会でよい報告ができるように、一年間頑張ってください。大いに期待しています」と言語で伝えるという手法です。どちらかだけのクラス群にこの声をかけるのか、両方にかけるのかは年度ごとにランダムにしています。

すると、このような結果が得られました(図1)。

図1:期待する旨の言葉をかけたクラスとかけなかったクラスの成績の差異

Aクラスの動向に注目してみましょう。期待する言葉かけがなかった年度とあった年度の間で大きな違いが出ています。
「期待している」という声かけがあった年には、順位が上がっています。
このような傾向が会社の上司・部下の間にも見られることで「ピグマリオン効果」は注目されているのです。

では、上司が自分を棚上げして部下に指示をすることとピグマリオン効果には何の関連があるのか?
重要なのは、指示に込める意図です。
この先輩は、「自分にはできないことだけどあなたには期待しているから、頑張ってみてほしい」という意味を込めていたのです。

「あなたなら自分を超えてくれると期待している」という意味ともいえます。

ノーベル賞受賞者のある研究が示すもの

そして、期待を込めた「棚上げ」をうまく使うことには、部下を伸ばすもう一つの可能性を秘めています。
1959年にノーベル生理学・医学賞を受賞したセベロ・オチョア氏が身体記憶に関する研究を行っています。筋肉と脳内物質の関係を調べたものです。

そして、このような結果を得ています。

筋肉は通常からその限界まで使用していると、緊張状態では130%の力を発揮するが、普段から70%程度しか使わない活動をしていると、今度は余裕として残している部分を守る方向に神経がはたらき、結果的に60%の力しか出なくなる、というものです*1

もちろん、現実には筋力量が仕事のパフォーマンスを左右するわけではありませんが、ヒューマンロジックロジック研究所の古野俊幸氏は、このように述べています。

日ごろから自分の力の70%しか使わずに過ごしている人は、いざ新しいタスクや緊急の事態が生じるなどの有事に及んだときに、60%しかアウトプットしかできません。それに対して、いつも100%の力を出している人は、有事では130%を発揮することができます。

<引用:日経ビジネス「『いい人と思われたい上司』が殺すもの」>

確かに、有事になって火事場の馬鹿力を発揮する人もいれば、有事になると怯む人もいます。

古野氏はこう続けています。

この差は、なぜ生じるのでしょうか。

前者にとって、残りの30%は未経験の領域です。やったことがないから、自分にあとどれだけ伸び代があるかわかりません。また、できるかどうかもわかりません。それが不安につながり、本来持っている力を発揮することができないのです。

一方、日々全力投球している人は、自分の限界を知っています。知っているからこそ、いざというときにも「ここまで確実にいける。その先はダメでもともと」という気持ちで挑むことができる。いわゆる「火事場の馬鹿力」が発現するのです。

<引用:日経ビジネス「『いい人と思われたい上司』が殺すもの」>

古野氏はこの実験結果を、自分の限界を知ることの重要性を説く文脈で用いていますが、上司が自分を棚上げすることの良い意味がここにあると筆者は考えます。

上司が、「自分はできないから」と部下への指示を遠慮していると、部下はその領域にチャレンジする機会を失ってしまいます。その上司にとっては苦手でも、部下にとっては得意な領域の仕事かもしれないのに、チャレンジする機会を消してしまっているのです。

その結果、部下にとっては「毎日が70%」となってしまうと、有事の際に力を発揮できなくなる可能性は大いにあるのです。 もちろん古野氏の文脈通り、上司の勝手な線引きによって「自分の限界を知る」チャンスを奪ってしまうことにもなります。

自分の限界イコール部下の限界、ではありません。そして、限りないチャレンジの場を与えなければ、部下は正しい自己認識を持つことができなくなってしまいます。

正しく「棚上げ」するために必要な「質問力」

筆者はなにも、部下には余裕を与えるな、と言いたいわけではありません。そんなことをしてしまうと、メンタルヘルスの面でよくないのは当然のことですし、パワハラになりかねません。

しかし大切なのは、先にも述べた通り、自分はできないから、自分は苦手だからといって部下のチャレンジの場を奪ってはならないということです。
また、「自分を超えてくれると期待している」という気持ちをきちんと伝えることが大切です。
そして、期待ゆえの指示、ということであれば、先に紹介した「ピグマリオン効果」を発揮してくれることにも繋がる可能性が大いにあるのです。

さて、アメリカでもっとも信頼されている「リーダーシップ論」の権威であり、毎年25,000人を指導する「世界一のメンター」、ジョン・C・マクスウェル氏はその著書「人を動かす人の『質問力』」の冒頭にこのように綴っています。

人生では「投げかけた質問」の答えしか返ってこない。

<引用:ジョン・C・マクスウェル「人を動かす人の『質問力』」p23>

同様に、出さない指示では結果を知ることができません。

マクスウェル氏はさらにこう述べています。

「底の浅い質問しかできない人」は「底の浅い答え」しか得られず、自信も欠如している。意思決定はお粗末で、優先順位も曖昧、未熟な対応しかできない。 一方、「深い質問」ができる人は、「奥深い答え」が得られ、人生に自信が持てる。賢い意思決定で最優先事項に集中でき、大人の対応ができる。

<引用:ジョン・C・マクスウェル「人を動かす人の『質問力』」p23>

部下に仕事を任せようとするとき、「この部下はこの仕事をできるか、できないか?」とだけの問いでは、「自分ができないのだから無理だろう」という浅い答えしか得られません。

しかし、「この部下にこの仕事をやらせてみるこことにどのような意味があるか?」と一歩進んだ問いを立てたとき、「自分ができないのだから無駄」という答えは返ってこないことでしょう。

自分の限界を見せることは信頼の強化にも

そして、さらに重要なのは、上司自身が自分を正しく自己認識することです。

「自分はやったことがないけれど」「自分は苦手だけど」という自分の限界を正しく知らなければ、それこそ嫌われるだけの自分の棚上げです。

人間に完全などありませんし、上司と部下では生きてきた時代も違えば得手不得手もあります。自分の限界も正しく伝え、共に苦手を克服していく、共に学び合う、その姿勢はすべての前提条件なのです。

この記事を書いた人

清水沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。
取材経験や各種統計の分析を元に多数メディアに寄稿中。