フェムテックの先にある10兆円市場 ジェンダード・イノベーションの商機とは

「ジェンダード・イノベーション」をご存知でしょうか。
日本ではまだ耳慣れない言葉ですが、今後、ヘルスケア業界をはじめとする多くの分野でスタンダードになると予測されている概念です。

本記事では、フェムテックの先にある、10兆円規模ともいわれる市場―ジェンダード・イノベーションの商機について考えていきます。

ジェンダード・イノベーションとは

これまでは主に男性が研究開発を担ってきたため、無意識のうちに同性である男性のみを基準とし、性差が見過ごされてきました。

例えば、アメリカの自動車事故データによると、女性が自動車事故に遭った場合、身長、体重、シートベルト使用の有無、衝突の激しさなどの要素を考慮しても、重症を負った確率は男性よりも47%高く、中程度の傷害を負った確率は71%、さらに死亡率も17%高いということです*1,*2

それは、自動車の衝突安全テストに用いられるダミー人形が「平均的な男性」の体格に基づいているからだと指摘されています。

ジェンダード・イノベーション(以降、「JI」)は、科学や技術、政策に性差分析を取り込むことにより、新たな視点や方向性を見出し、イノベーションを産み出すという考え方や技術革新を指します*3
この性差とは、生物学的な性差(セックス)と文化的・社会的な性差(ジェンダー)の双方を含みます*4

JIはアメリカのスタンフォード大学の科学史を専門とするロンダ・シービンガー教授によって2005年に提唱され、欧米を中心に広まってきた概念です*5, *6
世界最大の研究資金提供者の1つである欧州委員会は、850億ユーロ(約10兆円)のHorizon Europeプログラムを通じて資金提供する研究では、性別分析を義務化することを目指しています。

日本でも、最近JIの重要性が認識され始め、「女性版骨太の方針2022」にも、
「科学技術・学術分野において男女共同参画を進め、研究・技術開発に多様な視点を取り入れていくことは、ジェンダード・イノベーションの創出にもつながり、重要である」
と述べられています*7

実際に、女性が研究チームに参画し、女性の視点が入ることが企業パフォーマンスを高めることがわかっています。
製造業企業400社、約100万件の特許を対象にした研究では、男性発明家だけのチームより、男女の発明家が関わった特許の方が経済価値が高いという結果が出ているのです(図1)*8

図1:男性のみの発明家による特許と男女の発明家が関わっている特許の経済的価値

<出所:科学技術振興機構 渡辺美代子「ジェンダード・イノベーション 趣旨説明」 p.14>

多分野におけるジェンダード・イノベーションの取り組み事例

JIは命に直結しやすい医療・ヘルスケア領域で特に重要とされていますが、それ以外の幅広い分野にも関わる概念です*9

ここではまず、医療・ヘルスケア分野以外の取り組みをみていきましょう。

工学関連の研究例としては、上述のシートベルトの衝突実験が挙げられます。女性が重傷を負う確率や死亡する確率だけでなく、従来の3点式シートベルトは胎児の死亡率を上昇させ、胎児の死亡原因の第1位であることがわかっています*10
そこで、今後は女性・妊婦を考慮した衝突実験とシミュレーションによる安全性の確立が重要な課題となっています。

他にも、男性のデータを基に開発された車椅子は全体的に大きく、特に高齢の女性にとっては使いにくく事故が起こりやすいため、産学連携で女性に優しい車椅子の開発が進んでいます。

さらに、農機具メーカーの中には、女性農業従事者を支援する農林水産省のプロジェクトに参加し、女性が操作しやすい農機を開発した企業もあります*11
また、同企業は、座席の位置を体格に合わせて調整する機能をトラクターにつけ、「ぺダルに足が届きにくい」という課題を解決しました。
この機能は男性やシニアにも好評で、他機種の標準装備になった機能もあります。

お茶の水大学「ジェンダード・イノベーション研究所」では、「高齢者が男女とも使いやすいキッチンの改善」や「教育施設でのオールジェンダー対応型共用トイレの導入」に関わる研究など、内閣府の助成を受けた研究を進めています。

建築や都市計画にJIの視点を取り入れ、さまざまな世代や男女にとって快適なコミュニティを作る試みもあります*12
例えば、女性は男性より子どもの送迎や買い物のための外出が多いため、こうした男女の動線の違いに着目し、女性が多く通る道には女性の歩幅を考慮した歩道を作ることが欧米では奨励されています。

このように、現在では産学官の連携も含め、さまざまな分野でJIの取り組みが進んでいます。

フェムテックの先にある新市場

次に、ヘルスケア分野における取り組みを押さえた上で、JIの商機についてみていきましょう。

ヘルスケア分野におけるジェンダード・イノベーション

医学や薬学分野では、男女で発症率や症状が異なる病気があり、治療方法や薬の効き目にも男女差があることが分かっています*13
例えば、更年期女性の病気が見逃されやすいことを問題視し、女性専用の診療支援アプリを開発している医師がいます。

一方、骨粗しょう症は女性が経験する病気であるというジェンダーバイアスが存在しますが、男性も発症年齢が女性より10年程度遅いだけで、75歳以上では骨粗しょう症による脱関節骨折の3分の1は男性です。さらに骨折後の死亡率は男性の方が高いことがわかっています。
したがって、骨粗しょう症に対する治療や予防方法については、男性の骨粗しょう症リスク評価を見直す必要があるのです。

新型コロナウイルス感染症にも性差が認められます。男性の方が感染後の重症化率や死亡率が高く、ワクチン接種後の副反応は女性のほうが出やすいことが各国で報告されているのです*14
これは、もともと女性の方が病原体に対する免疫反応が強く、男性は重症化の原因になる肥満や糖尿病などの持病、喫煙などの悪化要因が多いためと考えられています。
一方、女性は免疫反応が強いため、新型コロナのワクチン接種によって体内に作られる抗体量が男性より多い傾向にあり、副反応も出やすいことがわかっています。

薬学の分野では、女性やメスの動物は妊娠、出産、性周期があるために、臨床試験では女性被験者数が少なく、また動物実験ではオスを使うことが多いという状況がありました*15
その結果、米国では、女性の健康上のリスクが高いとわかった8つの薬が販売できなくなりました。睡眠導入剤も、服用から8時間後に男性は3%、女性は15%が居眠り運転を経験したという結果が得られており、現在では女性の薬を男性の半量にして販売しています。

フェムテックの市場規模

矢野経済研究所の調査によると、2021年のフェムケア&フェムテック市場は前年比107.7%の642億9,700万円と推計されています*16

その前年2020年の市場規模の伸び率が前年比103.9%だったことに比べて、2021年は伸び幅が増しています。さらに、2022年の見込みも109.0%と、今後も市場規模が拡大していくと予測されています。

法人向けフェムケア&フェムテックの動向

フェムテック拡大の背景には、「女性活躍推進法」をはじめとする法改正やそれに対応する企業の動向が影響しているという面があります*17
労働力不足を解決するためには、企業ごとにさまざまな側面から女性が働きやすい環境を整えることが重要だと認識されつつあるのです。

女性の働きやすさに関しては、さまざまなライフイベントを迎えた女性の健康課題や悩みについての理解、配慮が企業側にまだ不足していることも否めません。そうした課題解決を含め、以前より幅広い企業が女性の働きやすさについて考える機運が高まっているようです。

2021年後半から2022年にかけては法人向けのフェムケア&フェムテックアイテム・サービスへの拡充が相次ぎました。オンライン健康相談サービスや妊活サポート、低用量ピル服薬支援プログラムなどが福利厚生サービスとして法人に導入される可能性も高まっているとみられます。

また、卵子凍結やホルモン検査のサービスを提供している企業もあります。しかし、今のところ福利厚生サービスとして提供されているアイテムは、吸水ショーツ以外に目立ったものがないようです。

メイルテックも視野に入れた新市場

こうした状況からもわかるように、フェムテックは「女性だけが持つ臓器や女性特有のライフステージや病気に着目したソリューション」と認識されていますが、フェムテックの普及を契機に、もっと広い視野でフェムテックを捉え、性差分析に取り組む動きが注目されています*18
それが上述したようなJIの取り組みです。

例えば、尿漏れパッドなど、これまで女性向け商品を展開してきたブランドでは、男性向けにサイズや機能を備えた商品を展開するケースがみられるようになってきています。
JIの発想によって、女性・男性それぞれに適したソリューションの開発が進んでいるのです。

このように、JIはフェムテック市場だけでなく、メイルテック市場も産み出しました(図2)*19

図2:ジェンダード・イノベーションが産んだフェムテック市場とメイルテック市場

<出所:Womanslabo「【開催レポート】矢野経済研究所のフェムテック研究員と語る、女性ヘルスケア業界の新スタンダード「ジェンダード・イノベーション」~現状と国内事情」>

矢野経済研究所の試算によると、フェムテック・メイルテックの市場規模は目前で1,200億円、JI視点の潜在市場は10兆円規模だということです。
上述のように、JIはヘルスケア領域だけに限定した概念ではなく、多様な業種・業態での商品・サービスが登場すると考えられます。
例えば小売業全体の1%、サービス業全体の1%というように各業態の1%だけをJI発想で捉えた場合、潜在市場は10兆円規模になると見込まれるのです。

ジェンダード・イノベーションのマーケティングとは

最後に、JIのマーケティングとはどのようなものでしょうか。
矢野経済研究所は、性差を意識して物事や社会を見ることで、社会的・文化的な偏見をなくし、個人に、より平等な機会を与えていくためのマーケティングであると述べています*20

JIの発想を持つことは、企業競争力を高める重要なファクターの1つです。なぜなら、性差分析を行って研究開発した商品・サービスは、患者やユーザーのQOL(生活の質)を高め、満足感を与えるからです。
そのため、リピート率が高まり、市場から選ばれる強い商品・サービスになっていくはずです。

近い将来、ヘルスケア業界をはじめさまざまな分野でスタンダードになるとみられているJI。その重要性を理解し、JI視点を備えたマーケティングに取り組む必要があるでしょう。

この記事を書いた人

横内美保子

博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。専門は日本語学、日本語教育。
高等教育の他、文部科学省、外務省、厚生労働省などのプログラムに関わり、日本語教師育成、教材開発、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティアのサポートなどに携わる。
パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。

*1:出所:讀賣新聞オンライン「研究開発 「性差」を考慮 製品・医療…男性視点から転換」(読書会員限定記事 2022/08/06 05:00)

*2:出所:PREJIDENT Online キャロライン・クリアド=ペレス「男女差47%」自動車事故で女性の重傷リスクが圧倒的に高い理由 女性のデータは無視されてきた

*3:出所:矢野経済研究所 主席研究員 清水由起起「ジェンダード・イノベーションが、私たちの生活にもたらすこと」(2022年10月)

*4:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*5:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*6:出所:科学技術振興機構 渡辺美代子「ジェンダード・イノベーション 趣旨説明」 (2021年8月18日 日本学術会議公開シンポジウム ジェンダード・イノベーション(Gendered Innovations)~一人ひとりが主役の研究開発が新しい未来を拓く~)p.4

*7:出所:男女共同参画会議「女性活躍・男女共同参画の重点方針 2022 (女性版骨太の方針 2022)(原案)」(2022年5月27日)p.19

*8:出所:科学技術振興機構 渡辺美代子「ジェンダード・イノベーション 趣旨説明」 (2021年8月18日 日本学術会議公開シンポジウム ジェンダード・イノベーション(Gendered Innovations)~一人ひとりが主役の研究開発が新しい未来を拓く~)p.14

*9:出所:矢野経済研究所 主席研究員 清水由起起「ジェンダード・イノベーションが、私たちの生活にもたらすこと」(2022年10月)

*10:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*11:出所:讀賣新聞オンライン「研究開発 「性差」を考慮 製品・医療…男性視点から転換」(読書会員限定記事 2022/08/06 05:00)

*12:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*13:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*14:出所:矢野経済研究所 主席研究員 清水由起起「ジェンダード・イノベーションが、私たちの生活にもたらすこと」(2022年10月)

*15:出所:産学官連携ジャーナル お茶の水女子大学 理事・副学長 ジェンダード・イノベーション 研究所所長 石井クンツ昌子「リポート ジェンダード・イノベーションと産学連携」(2022年12月15日)

*16:出所:矢野経済研究所「フェムケア&フェムテック(消費財・サービス)市場に関する調査を実施(2022年)」(2022年11月17日)

*17:出所:矢野経済研究所「フェムケア&フェムテック(消費財・サービス)市場に関する調査を実施(2022年)」(2022年11月17日)

*18:出所:矢野経済研究所 主席研究員 清水由起起「ジェンダード・イノベーションが、私たちの生活にもたらすこと」(2022年10月)

*19:出所:Womanslabo「【開催レポート】矢野経済研究所のフェムテック研究員と語る、女性ヘルスケア業界の新スタンダード「ジェンダード・イノベーション」~現状と国内事情」(2022年9月22日)

*20:出所:Womanslabo「【開催レポート】矢野経済研究所のフェムテック研究員と語る、女性ヘルスケア業界の新スタンダード「ジェンダード・イノベーション」~現状と国内事情」(2022年9月22日)