ネオテニーとは何か、人材の可能性を見出す新しい軸として

環境やトレンドはコロコロと変化し、次々と現れる新技術にもついていかなければならないー。
そんな慌ただしい時代を、私たちは生きています。「変化」が常にキーワードになっています。

また、組織には「専門性」と「柔軟性」の両方を持ち合わせることが求められています。これはなかなかに難しいことのように思えるかもしれません。
しかし、わたしたちヒトは、生まれながらにしてある特徴を持っています。「ネオテニー」という性質です。

生物学の世界の話ではありますが、組織運営についてひとつのヒントになるかもしれませんので、しばしこのお話にお付き合いいただければと思います。

「ネオテニー」とは

「ネオテニー(neoteny)」は「幼形成熟」「幼態成熟」などと訳され、生物学的には、幼生や胎児にみられる特徴が成体になっても残っていることをいいます。
ネオテニーを説明するのによく挙げられるのが、80年代にテレビCMに登場し大ブームを巻き起こした「ウーパールーパー」(正式名称は「アホロートル」)です。

ウーパールーパーは両生類ですが、変わった特徴を持っています*1

両生類のほとんどはエラ呼吸で幼生期を過ごしますが、成長して変態すると肺呼吸に切り替わり、同時にエラは失われます。
しかし、ウーパールーパーの顔まわりにあるふさふさの角のようなものは、エラそのものです。

ウーパールーパーには変態という成長過程はなく、エラ呼吸という子供の体のまま生殖能力を持つようになる=つまり大人になります。オタマジャクシのまま大人になって生涯を過ごすようなもので、珍しい生き物なのです。

またウーパールーパーは再生力の高さでも知られています。四肢を切られたり共食いされても生えてくるのです。四肢だけでなく、心臓や目の水晶体、脊髄までもが再生できる能力を持っています*2

ヒトの「ネオテニー」性とは

そして生物学の世界では、ヒトもまた、ウーパールーパーのようにネオテニーの特徴を持つ生き物だと指摘されています。

解剖学的には、顔が平坦・少ない体毛・四肢の構造・骨盤の形など多くの特徴が他の動物では成長と共に変化するのに対して、ヒトでは成人になるまでそのまま維持されるという点が挙げられています*3

<出典:チンパンジーとヒトの顔の形の変化|尾本憲市「ヒトの特異性を研究する意義」日本子ども学会) p7>

上の図はチンパンジーとヒトで、胎児と成体の顔の形を比較したものです。確かにチンパンジーの成体では顔の平坦さが大きく失われているのに対し、ヒトの成体では顔の平坦さは保たれたままです。胎児の時の特徴が成体になっても維持されている、というわけです。

また、ヒトの成長は「生理的早産」であり、下のような特徴を持つとする指摘があります*4

ヒトの赤ちゃんが、チンパンジーの赤ちゃんと同じぐらいの発達状態で生まれてくるためには、2年ほどを母親のお腹の中で過ごさなければなりません。しかしそれでは体が大きくなりすぎて産めなくなってしまいます。よって「早産」の形で誕生し、生後の1年間は、実は胎児の延長という考え方です。

ヒトが自分で餌を取れるようになる=独り立ちできるまでの期間が長いのはそのためです。

ポストフォーディズムとネオテニー

これらはあくまで身体的特徴ですが、ヒトのネオテニー性は、社会学の方面からも注目されています。
幼体のまま、ということは「何かに特化していない」「なにものでもない」ということでもあります。

現代の生産様式と「労働」の性質の変化

現代の生産様式は「ポストフォーディズム」と呼ばれます。

ポストフォーディズム、とは「フォーディズム」に対する言葉で、米自動車メーカーのフォードから生まれた言葉です。ヘンリー・フォードは自動車の生産に初めてベルトコンベアラインを導入した人物として知られています。1913年のことです*5

自動車は当初、貴族や特権階級のためのものであり、アメリカでは約500の自動車メーカーが受注生産の形で生産していました*6。しかし広大な国土を持つアメリカでは、馬車に代わる移動手段として自動車の需要があり、実用性を追求した「T型フォード」が誕生、低価格の大衆車として広がっていくようになります。フォーディズムの到来です。

労働者の在り方は大きく変化しました。労働者は効率のみによって管理されるようになります。これは熟練化や自律性を奪うものとも言えるでしょう。

しかしこうした時代は終わり、ポストフォーディズムにある現在では、労働者に求められるのは肉体的な労働力だけではなくなくなりました。

イタリアの哲学者パオロ・ヴィルノはこう述べています。

労働=力が、労働者の持つ肉体的かつ精神的な<すべて>の力量の総体という、その正規の定義に完全に対応するようになったのは、現代においてだとわたしは思います。

<引用:パオロ・ヴィルノ「ポストフォーディズムの資本主義」p90>

一定の時間、工場の中で特定の肉体労働を提供すればその他の時間は無関係、というのではなく、性格や特技といった個人の内面的、精神的な面も、現代では生産の道具として使われている、という指摘です。

ネオテニー性も生産の道具に?

さらにヴィルノはこのようにも指摘しています。

ポストフォーディズムの資本主義は、剥き出しの「人間的自然」そのものを労働に適用し、ネオテニーや未分化性をまさに真の経済的資源の域にまで高めた、というのが諸君も知っているようにわたしの主張するところです。

<引用:パオロ・ヴィルノ「ポストフォーディズムの資本主義」p78>

精神性どころか、それより以前の未熟である・未完成であるという剥き出しの姿が、社会の中でどのように経済的資源・経済の道具になるというのでしょうか。

ヴィルノは現代を「平常の、恒常的で、回避不可能な、永遠の亡命と言える状況」と述べています*7

亡命者は、他国でまず疎外感と無力感に駆られます。人は特定の言語、特定の文化圏に対応する専門性を特化させているためです。しかし、この専門性を特化させすぎていないほうが新しい環境への順応が早い、未完成であればあるほど良いというわけです。

ひとつのものを作る能力だけに特化しすぎては、「永遠の亡命」である現代に適応するのは難しいというわけです。

「おじいさん・おばあさん」の今昔

また、ネオテニーを別の側面から見た意見もあります。

100歳時代の働き方について提言した著書「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」がベストセラーとなったロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン氏らは、ヒトのネオテニー性についてこのように述べています。

進化学的にいうと、子どもは大人より柔軟性に富み、適応力が高い。大人のような保守的なものの考え方が形作られておらず、特定の行動パターンに染まってもいない。「変わらない」ことは、直線的に進む3ステージの人生では好ましい結果をもたらしたかもしれない。変化を遂げる必要性が乏しく、そういう機会も少ないからだ。しかし、長く生きる時代には、硬直性がマイナス材料になり、若々しさの価値が高まる可能性がある。
(中略)
100年ライフで若々しさが強まる要因は、もう一つある。エイジとステージが切り離されれば、さまざまな年齢層が混ざり合う機会が飛躍的に増える。

<引用:「リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」p226>

ヒトの成長の特徴としてみられるネオテニー性がどこまで「考え方」「行動」に直結するかはわかりません。
ただ、現代に特徴的な事実として、グラットン氏らはこう指摘しています。

あなたのおじいさんやおばあさんが16、17歳の頃の写真を見てみてほしい。写っているおじいさんやおばあさんは、人生経験が豊富そうに見え、まじめくさった顔をして、彼らの親と同じような服装をしているだろう。では、1950年代半ばの写真はどうか?この時代の16、17歳は、だいぶ若い服装と外見をしている。
(中略)
将来は、20歳の人たちの写真が若々しさをますだけでなく、50代や60代の人たちの姿も、あなたのおじいさんやおばあさんがその年齢だった頃に比べて概して若々しく見えるようになる。肉体的な面だけではない。服装や行動も若くなる。

<引用:「リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」p225~226>

確かに今、「元気なおじいちゃんおばあちゃん」というだけでなく、高齢の人が定年を過ぎて学び始めたパソコンで遊んだり、80歳や90歳でPCゲームを楽しんだりする姿も見られます。

社会が変化して人間がこうしたネオテニー性を発揮するようになったのか、人間がもともとネオテニー性を持つからその方向に社会が変化して行ったのかどちらかはわかりません。
しかし平均寿命が長くなった現代、「子供の頃のような好奇心を発揮する」高年齢者が増え、そういった人たちが魅力的に映るのもまた事実でしょう。

同時に彼らは経験値の塊でもあります。こうした人たちの「変化への順応力」を取り入れないわけにはいきません。

人材の可能性を見出す新しい軸としての「ネオテニー性」

ここまでご紹介してきたいくつかの考察から言えることは、ヒトのネオテニー性は、組織について2つの可能性をもたらすということです。

まずはヴィルノの指摘するように、一つのことだけに特化しすぎることの危うさと、特化しすぎないことの現代社会におけるメリットです。

もうひとつは「LIFE SHIFT」で挙げられたように、いくつになっても未成熟であることは、経験を積んだ高齢者であっても、なお好奇心を持ち新しいものに触れ続けることができる可能性です。

ポストフォーディズムの現代にあって、変幻自在な組織は確かに強みを発揮していくでしょう。ウーパールーパーのように、失った四肢がいつでも生えてくればありがたいものです。

そしていま、「若い人」にその可能性を求めすぎてしまい、過剰なまでの争奪戦も起きています。
しかしネオテニー性はヒトの「本質」であり、年齢という数字によって決まるものではないと考えれば、組織構成や人材を見る視点、社内コミュニケーションの新しい在り方が見えてくるのではないでしょうか。

また、未熟であること、未完成であることがヒトの本質だとすれば、それが剥き出しになることを「恥ずかしい」としない風土づくりが必要です。今までの社会では、そういった性質を「大人として恥ずかしい」と捉え、「何かに特化している」ことで体面を保ってきたというきらいがあります。

しかしチャレンジ心や挑戦力は「子ども性」の中にこそあり、それを互いに覆い隠しあっていては発揮することはできないのです。

この記事を書いた人

清水沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。
取材経験や各種統計の分析を元に多数メディアに寄稿中。