プラネタリーヘルス実現への道、鳥取県人口最小のまちから世界へ

元々は人間を診る内科医。母親が病気だったことから、病気のない世界をつくりたいと医師になったという桐村里紗氏。ですが、残念ながら今の社会システムでは、人が当たり前に生きているだけで、病気になり、かつ地球も病的な状態になっていく構造から逃れることができません。人も社会も自然もすべてがつながっているのに、人間の病気だけを診てみても問題は解決できない–––そんな想いを抱く中で出会ったのが、プラネタリーヘルスでした。

長崎大学大学院がプラネタリーヘルス学環(学科)を創設したり、東京大学と JR東日本が高輪ゲートウェイをプラネタリーヘルスの産学共創拠点にすることを発表したりと、にわかに注目が高まるプラネタリーヘルス。

桐村氏の活動を彩るキーワードには、プラネタリーヘルスを始め、協生農法、クオンタルと、これからの地球を、私たちの在り方を考えていく上でのヒントが満載です。

紛争に自然災害、地球がさまざまな病理に侵された2024年、能登地震に羽田空港での衝突事故と心痛むできごとからのスタートとなった2025年。ポジティブな未来のほうへと、私たち人類が歩みを進められることを祈って、人に、地球に、処方箋を、と取り組む桐村氏のインタビューをお届けします。

「鳥取江府モデル」で世界へ

「今の社会システムの土台の上では、人はただ日々を暮らすだけで、自然生態系に負荷をかけてしまう、ネイチャーネガティブな存在」との桐村氏の言葉を借りるまでもなく、既に人類は、地球とともに共存共栄していく上で超えてはならない境界線を超えてしまっているのが現状です。結果、巡り巡って、土砂崩れや洪水、山火事などの災害が襲い、生態系の変化によって農作物が低栄養になったり、食糧生産の変化から生活習慣病が増えたり、新型コロナ感染症のパンデミックが発生したり、間接的にはそれが内戦の勃発や難民の増加につながったりと、人も地球も複数の病気を抱えてしまっています。

人間個人だけでなく集団全体の健康(パブリックヘルス)、地域間格差のない世界中の人の健康(グローバルヘルス)、人だけでなく微生物や野生動物、家畜、生きとし生けるものすべての健康(ワンヘルス)。これらすべてを包括し、資源や気候、地球上のあらゆるシステムはすべて一つで有機的につながっているという考え方のもと、全体を健全にしていきましょう、私たち一人ひとりが意識を変えて、行動を変えて、経済としてもネイチャーポジティブエコノミーが回るように社会全体で考えていきましょう、というのがプラネタリーヘルス、プラネタリーウェルビーイングです。

2015年のワールドヘルスサミットでプラネタリーヘルスという考え方に出会った桐村氏。2022年には、鳥取県人口最少の江府町とプラネタリーヘルス推進連携協定を締結し、町営のせせらぎ公園内の施設を拠点に流域を結び、「鳥取江府モデル」の実現を目指しています。

夫婦で江府町に移住し、共に立ち上げたtenrai株式会社も移転登記。

「生涯江府町民、江府町の企業でやりますと意思表明をしています。地域の人間となって、その地域に住んで、課題をともにしながら、いかに一緒にやっていくか。その土地の歴史文化気候風土と関係ないものをいきなり張りぼてのように持ってきても根付きません。元々の精神性や生活様式に合ったものを必然性をもって建築するということが大切」と語ります。

ガイナーレ鳥取×農業×生物多様性…=プラネタリーヘルス

プラネタリーヘルスを実現する取り組みの一つが協生農法です。

最初のきっかけとなったのが、ソニーコンピュータサイエンス研究所のシニアリサーチャーでプラネタリーナビゲーショングループ長である舩橋真俊氏のチームとJリーグのチームであるガイナーレ鳥取とtenraiが連携し、サッカースタジアム横で開いた圃場(農作物を育てる場所)でした。舩橋氏の提唱する拡張生態系理論に基づく「Synecoculture™」(シネコカルチャー。協生農法を科学的に分析して発展させたもの)の手法は、鳥取県にある弓ヶ浜半島の決して豊かではない砂地の圃場を、あっという間に生物多様性が豊かな、生産する土地に変えてくれました。

<写真1:ガイナーレの選手たちとともに。>

当初は、微生物多様性活性を測る数値(DGCテクノロジーによるBIOTREX)で偏差値50.9だった、決して恵まれているとはいえない砂地が、1年4ヶ月で偏差値85.5になったといいます。

<図表1:拡張生態系構築としての自然資本>

「農業を通じて、土地の微生物多様性活性を高めていくと同時に、農作物が持っている土壌微生物多様性がどう人の腸内や健康に寄与していくか、口腔内細菌や腸内細菌にどう影響するかということも医学部を中心に研究を進めて明らかにしていきたい」と桐村氏。

活動拠点であるせせらぎ公園「あやめ会館」でも、慣行農家(化学肥料や農薬を使う一般的な農家)も一緒に混じり合いながら、町民と内外合わせて70名程が参加して圃場を開きました。
「私たちがいないときも、町民のみなさんが“収穫時期が遅れるから収穫しておいたよ!”と。私たち主導というよりもみんなでやっている感覚です」と、町民が楽しみながら活動に関わっている姿が伺えます。

「地球環境的にも待ったなしですし、時代的にいかにスピーディにやっていくかは勝負。土地の特性を考えて、どこと組むかは大切な視点です。我々はベンチャーなので、行政単位が小さく、動きが早い、即断即決の江府町はベストパートナー。農業を主導する町議会議員さんたちも一緒に、江府町から世界へ向けてプラネタリーヘルスを推進しようと応援してくださっています。」

産官学民全体を巻き込みながら、地域住民たちを主体的に巻き込んでいく推進力とそのスピードには目を見張ります。

水のまちだから、水のグリーンエネルギーで循環するまちへ

水のまちの持続可能エネルギーとはなんだろうと考えたときに、辿り着いたのは水素でした。水から水素をつくり、水素を燃焼し、エネルギーになってまた水に戻るという、究極のグリーンエネルギー循環。そこでスポットライトを当てたのが、江府町にある貝田集落という棚田が有名な集落。壊れた水車小屋を修理し、マイクロ水力発電装置を設置しました。この先は、マイクロ水素生産にチャレンジしていきます。

絶滅危惧種の宝庫となってしまった水田に、生物多様性を取り戻す豊かな稲作を行うと同時に、農業で使うエネルギー生産も持続可能なものに変えていく。農業という営みもまた、大山からの水の恵みが川から海へと循環し、土中を通って海底湧水へと、すべてが一体としてつながる中にあります。プラネタリーヘルスな里山モデルの実証実験の場として、期待したい取り組みです。

医療×プラネタリーヘルス

西洋二元論の医療から、連続する全体をみる医療へ

桐村氏がプラネタリーヘルスに深くコミットした背景には、現代の医療への違和感があったことは冒頭に述べた通りです。西洋二元論や要素還元論に基づき、体をパーツに切り分けて、パーツもさらに微分や割り算のように局所しかみない、既存の科学で認識できる世界だけをみる方向で進んできました

健康から病気の状態までグラデーションの一部を切り取って病名を付けて、診断する。病気と病気ではないを切り分ける。病名がつかないものは病院では診られませんと治療対象外。診断基準のフローチャートに則って病名を確定診断し、プロトコルに則って治療する。
今の医療のあり方であれば、AIのほうが確実に正確に診断でき、医者は要らないということにもなりかねません。

そんな中で出会ったのが、人工自我、ロボットの心を研究する東京大学の道徳感情数理工学という研究室と、光吉俊二特任特任准教授が生み出した「四則和算」という新しい数学でした。0と1で表現されるデジタル(分離数)だけではなく、0と1の間にあるグラデーションのアナログという連続性を重ね合わせることで、個々の要素の絡み合いを表現することができる「クオンタル」。
「医学を、生命を、再定義し、表現できるのはクオンタル」と、現在はこの寄附講座の主宰、兼共同研究員として、関わっています。

「この数学を応用することで、心身のグラデーションの状態を関数化して診断することができれば、工学制御が可能になる治療にもつながってきます。これまで人の意識が分断していたものを連続性を持って捉え直していくことができますから、心と体、人と常在細菌、人の内的環境と外的環境などを切り分けずに関係性を紐解いていくことができます。」

四則和算は、現象が起きている原因となっている裏側の本質をみることに応用できる数式です。SDGsの17項目もそうですが、人間の健康だけを最適化すると今度は森の豊かさ、海や山といった生態系に影響を与えてしまうことがあるように、部分最適化することでどこかに歪が生じ、全体のアンバランスが生じることはよくある現象です。西洋医学の診断治療も同様で、局所だけをみて治療することで、全体に不具合が生じることはよくあります。

「同時に起きているさまざまな現象は、バラバラではなく、すべてつながって絡み合い、全体の中で起きていると捉え直して、共通の原因となる共有関数をみていく。裏にある本質は何か?と見方を変えることよって全体をよくしていくという、意識の使い方にシフトしていくことが必要になってきます。医学だけではなくすべての分野がそうですよね。」

プラネタリーヘルスの実現には、すべての分野を連続的で本質的なものの見方で捉え直し、分野を超えた連携で動くことが欠かせないと、桐村氏は考えています。

江府町から世界へ。
「人は正しさでは動かない」
そう語る、プラネタリーヘルスの実践家の、2025年の活動からも目が離せません。

この記事を書いた人

今村美都

がん患者・家族向けコミュニティサイト『ライフパレット』編集長を経て、2009年独立。がん・認知症・在宅・人生の最終章の医療などをメインテーマに医療福祉ライターとして活動。日本医学ジャーナリズム協会会員。