人を動かす「ナラティブ」が持つ力とは?正解なき時代に物語が重要になる理由

「ナラティブ」とは、物語や語りを意味する言葉であり、語り手自身を主役にした物語を指します。

もともと文芸の分野の言葉であったナラティブが、近年になって教育や医療、経済など、様々な分野で注目されるようになってきました。
物語の持つ役割の重要性が認識されるようになってきたからです。

なぜ今の時代に、ナラティブが重要になってくるのでしょうか。
そして、ナラティブの持つ力をうまく活用するには、どうすればいいのでしょうか。

社会は「物語」で動いている

ナラティブと呼ばれる物語が、まるでウイルスのように人々の間で感染して広がっていき、社会を動かしている。

そのことを明らかにし、経済予測の全く新しい考え方を唱えたのが、2013年にノーベル経済学賞を受賞したロバート・シラー教授です。

シラー教授の著書『ナラティブ経済学』において、経済を動かしてきた経済ナラティブがどのようなものなのかが詳細にまとめられています。

経済ナラティブとは、人が経済的な判断のやり方を変えてしまうような、感染性の物語を指します。
とりわけビットコインの物語は、成功した経済ナラティブの一例とされています。*1
きわめて感染性が高く、世界の相当部分で経済的変化をもたらしたからです。

ビットコインという先進技術の物語は、難解な専門用語が多いにも関わらず多くの人が熱狂し、最近では仮想通貨の会社が経営破綻するなど、社会や経済に大きな影響を与えました。

「語り」という点で「ナラティブ」とよく混同されるものに「ストーリー」がありますが、両者には大きな違いがあります。

ストーリーは、起承転結型の筋書きがあり、時間軸に沿って順番に沿って展開されていき、物語に終わりがあります。

一方のナラティブは、常に現在進行形で、物語にあらかじめ決まった終わりというものがありません。

感染力のあるナラティブのもとでは、先が見えないまま多くの人が熱狂の渦に巻き込まれ、突き動かされてしまうのです。

人はなぜナラティブに影響を受けるのか

人間は理性的に物事を考えて判断していると信じる人にとって、多くの人がナラティブによって動かされてしまっているという現実は、受け入れがたいものです。

世間では相手を動かそうとする際に、科学的な根拠やメリットを提示しながら説得すれば動いてくれるはずだと思われがちです。

しかし実際には、そうはならずに相手が不合理な判断を下してしまうというケースが、数多くあります。

そうなってしまう理由が、人間の「感情」にあります。

とりわけ地球上の生物の中でも、言葉を使い集団で社会を形成する人間は、複雑で多様な感情を有しています。

人間をはじめとした感情を有する生物にとって感情が必要であった理由の一つに、生存確率を高めるためだったという考えがあります*2

恐怖や不安がなければそれに対処することはできなくなり、喜びがなければ報酬を得るために努力するということができなくなってしまうことから、生きていくために感情が必要とされたのです。

長い進化の歴史の中で先に生まれた感情は、後から生まれた理性を超えて人間の行動を支配してしまうため、不合理な判断に結びつきやすくなってしまいます。

感情は、行動を起こすためのスイッチとしての側面を持っています。

その感情を動かすために有効な手段が、「物語」なのです。

集団を形成することで発展してきた人類は、集団の他のメンバーから伝達される情報を重視するように進化してきたとされています。
集団内で情報を共有することが、集団での協力作業を円滑に進めるのに有利だからです。
人類の祖先が生活していた環境では、100人前後の小集団で生活しており、情報の共有も容易であり、怪しい噂もすぐに訂正できたとされています*3

そのため、小集団の中で見聞きする情報は、すぐさま正しいものだとして受け取ることに意義が生まれました。

そして、疑うことよりも信じることが優先された結果、人間は「信じやすい動物」として進化してきました。

こういった背景があり、人間はナラティブによって影響を受けやすくなったのです。

広がりつつあるナラティブによるアプローチ

ナラティブが注目されるようになってきた背景には、価値観の多様化もあります。

一般的に正しいとされる考え方を一方的に相手に押し付けるということをしていたのでは、かけがえのない個人に寄り添うということができなくなってしまうのです。

では具体的に、ナラティブを用いたアプローチとは、どのようなものなのでしょうか。

ナラティブによるアプローチが注目されるようになってきた分野に、「医療」があります。

一般に、医療とは、患者の持つ疾患を診断し、その原因を特定し、治療を行うことで問題を解決するような一連の行為と考えられてきました。

しかし、現代の医療は、慢性疾患や難病等の治癒が望めない病気の人をどのように世話するのか、老化という生理現象と切り離せない、フレイルやロコモティブシンドロームといった問題をどのように扱うのかなど、単純なモデルでは解決できない多くの問題を扱わざるを得なくなってきています*4

「いつでもどこでも誰にでも、この治療法が有効」というような一般的な方法論を求めるだけでは、かけがえのない個人としての患者の人生に、本当の意味での満足を提供することは難しいということが、ますますはっきりしてきているのです。

「病気になる」ということは、何らかの形で患者の人生の物語の一部が壊れてしまうことであると認識されます。

それまで元気に生活してきた人が、ある日突然、重い糖尿病であることを告げられ、決まった食事とインスリン治療を続けなければならなくなるというのが、その一例です。

そうなってくると患者は、「これまで元気に生きてきたから、これからもそうだろう」という自身の人生の物語を「決まった食事をしてインスリン治療をすれば、普通の人と変わらない人生を送ることができる」というように書き換える必要性が出てきます。

患者が病気を受け入れて、新しい人生の物語を作っていくというのは、容易なことではありません。

患者に寄り添いながら、患者が自身の物語を書き換えるのをサポートし、よりよい人生を送れるようにしていこうとするのが「ナラティブ・アプローチ」と呼ばれるものです。

新しい物語を創っていく中で、気づきが生まれて意識が変わり、よりよい人生を送れるようになるのです。

ナラティブを活用したPRの事例

ナラティブをPRに取り入れるといっても、具体的に何をどうしたらいいのか分からないという方も多いのではないでしょうか。

ここでは実際にナラティブをPRに取り入れて成功した事例として、パンテーンと味の素冷凍食品の事例をご紹介します*5

パンテーンの「#この髪どうしてダメですか」キャンペーン

P&Gのヘアケアブランドである「パンテーン」は、「あなたらしい髪の美しさを通して、すべての人の前向きな一歩をサポートする」というブランドフィロソフィーを持っています。

2018年より、髪にまつわる日本の同調圧力に疑問を呈し、一人ひとりの個性を考えるきっかけをつくるキャンペーンを展開しています。
その中の一つが、大きな反響を呼んだ「#この髪どうしてダメですか」キャンペーンです。

2017年に、生まれつき茶髪の女子高生が、学校からの度重なる黒染め強要で精神的苦痛を受け、訴訟を起こした事件がニュースになりました。

マーケティングチームは、この事件に一人の女子高生につながるナラティブを見出し、「#この髪どうしてダメですか」キャンペーンを企画します。
ツイッターでは、ハッシュタグ「#この髪どうしてダメですか」をつけたツイートは累計18万を超え、その後も投稿され続けています。

このキャンペーンでは、パンテーンのイメージや売上が上がっただけではありません。
東京都教育委員会が都立中学校での黒染めの指導廃止を宣言するなど、社会的な行動変容を起こすことにも成功しました。

味の素冷凍食品の「冷凍餃子は”手間抜き”です」

2020年8月4日、一人の女性が、疲れて辛かったので夕食に冷凍餃子を出したところ、夫から手抜きだと言われた、という内容をツイッターに投稿しました。

さまざまな同情の声が集まる中、このツイートに味の素冷凍食品の公式アカウントもすぐさま反応し、
「冷凍餃子を使うことは、手抜きでななく、”手間抜き”です」
「冷凍食品を使うことで生まれた時間を、子どもに向き合うなど有意義に使って欲しい」
と投稿しました。

餃子に限らず冷凍食品に対しては、調理加工技術がまだ十分でなかった時代の「手軽だがあまり美味しくない食品」というイメージがあるようです。
また冷凍食品を嫌う背景には「家庭料理は妻が愛情を込めて手作りすべきだ」という「手作り信仰」もあります。

このような冷凍食品に対する消費者の認識を変えるため、味の素冷凍食品は生産工程をまとめた動画を作成し、2020年10月に公開しました。

動画の中で144もの工程を経て作られていることを紹介して「従業員があなたに代わって手間と愛情を込めて作っている」ということを可視化しました。
さらに、動画の最後には「最後の仕上げは、あなたのフライパンで」というキャプションを入れているのです。
十分な手間がかかっているから手抜きではない、ということを印象付けるメッセージが入っています。

動画の反響は大きく、1カ月弱で90万回再生を達成し、冷凍食品に対する認識を変えるものとして注目を集めました。

これらの事例を見ても分かるように、ナラティブはストーリーのような起承転結型で終わりがあるものではなく、常に現在進行形で物語が展開していきます。

消費者と企業が時間や体験、価値観を共有し、消費者の意識の変容が起こるとともに、企業側も売上アップやブランドイメージの向上につなげることができるのです。

この記事を書いた人

黒田貴晴

キャリア系マーケター、心理カウンセラー
脳科学や心理学に強いマーケターとして、主にキャリアに関する分野で活動しているほか、心理カウンセラーとしても、コミュニケーションに問題を抱えた方へのサポートも行っています。就職・転職系のメディアやビジネス心理学のメディアでの執筆実績多数。

*1:参考:「ナラティブ経済学」、ロバート・J・シラー著、P19

*2:参考:「「こころ」はいかにして生まれるのか」、櫻井武著、P69

*3:参考:「人はなぜだませれるのか」、石川幹人著、P134

*4:参考:「医療におけるナラティブ・アプローチの最新状況」、日本内科学会雑誌、108巻7号、P1464~1465

*5: 参考:「ナラティブカンパニー」、本田哲也著、P126~139