スターバックスの成功にも貢献? アンカリングを活用したマーケティングの功罪

最高級品が飾られているハイブランドのショーウインドウ。その高額な値段を見た顧客の目には、店内の他の商品が安く映ります*1
あるいは、定価が1万円で値引きがない商品Aと、定価が1万5千円で5千円値引きの商品Bがあった場合、どちらも同じ1万円でも、値引きがあったBを買う方が得だと感じるでしょう。

これは、アンカリングという認知バイアスの例です。
実はマーケティングの中にはこの原理を利用したものが数多くあります。
それはどのようなものでしょうか。
事例を交えながら、その効果とリスクについてみていきます。

アンカリングとは

私たちは数値を推定・決定するとき、利用可能な数字を拠りどころ(アンカー:船のいかり)にするせいで、決定や判断がゆがみやすい傾向があります*2
しかも、アンカーは、推定する対象とは関係がなくても、また明らかにナンセンスな数値であっても、判断に影響します。
これがアンカリングです。

意味のない数値でも

アンカリングに関する有名な実験があります。

その実験では、被験者を2つのグループに分けて、マハトマ・ガンジーが亡くなった年齢を尋ねました。まず、1つのグループには140歳より上か下か、もう一方のグループには9歳より上か下かをききました。
もちろん、どちらのグループも、即座に「下」あるいは「上」と答えました。

次に、ガンジーの没年を尋ねたところ、その答えは明らかにアンカーの影響を受けたものでした。140歳にアンカリングされたグループが推定した平均年齢は67歳だったのに対して、9歳にアンカリングされたグループが推定したのは平均50歳だったのです。

しかし、この実験結果に疑問を呈した人たちもいました。被験者はその質問について知識も関心もなかったから、そんなトラップに簡単に引っかかってしまったのではないか。質問内容が自分にとって重要だったらそんな結果にはならなかったのではないか、というのです。

懸命に無視しようとしても

そこで、研究者は被験者の実際の職業を考慮した実験を行いました。
そのうちの1つは、経験豊かな判事を被験者にしたものでした。彼らに万引き事件に関する詳細なファイルを渡し、その犯人にどのくらいの保護観察期間を言い渡せばいいかと尋ねたのです。

そのファイルの保護観察期間は空欄にしておき、まず判事たちに2個のサイコロを投げて、出た目の合計をその空欄に記入するよう指示しました。
もちろん、サイコロを投げて出た数字には、まったく意味がないことを判事たちは十分、承知していました。しかし、それにもかかわらず、その数字は保護観察期間に影響を与えました。
例えば、サイコロの目の合計が「3」だった判事は平均5か月とし、「9」だった判事は平均8か月と判断したのです。

戦略的意思決定を専門とする研究者、オリヴィエ・シボニー博士は、この実験結果から、
「私たちは、アンカーの数字を懸命に無視しようとしても、その影響を受け続ける。アンカーの数字は質問内容とまったく関係ない時でさえ、私たちの意思決定に影響する」
と述べています。

「スタバは高い」と思わないのはなぜか

行動経済学者のダン・アリエリー博士は、アンカリングの原理をスターバックス(以降、「スタバ」)に関連させて説明しています*3
それはどのようなものでしょうか。

最初は高いと思っても

スタバに初めて入った人はコーヒーの高さにびっくりするかもしれません。少なくとも、いつも行くドーナツ屋のコーヒーとは比べ物になりません。でも、ものは試しと、小さいサイズのコーヒーを注文してみます。そして、その味や雰囲気を堪能して店を出ます。

翌週、スタバの前を通りかかったとき、立ち寄ろうか、やっぱりやめておこうかと迷うかもしれません。そのときの理想的な意思決定とはどのようなものでしょうか。おそらく、コーヒーの品質、価格、店までの距離について、スタバとなじみのドーナツ屋を比べることでしょう。

でも、そのためには複雑な計算をしなければなりません。
そこで、もっと簡単な方法でこう決めます。
「先週もスタバに入って、気持ちよくコーヒーを楽しめたのだから、またそうするのがいい選択じゃないか」
そして、スタバに入って、また小さいサイズのコーヒーを頼みます。

次にスタバの前を通ったときにも、前の決断にしたがってスタバに入ります。それは、「自己ハーディング」と呼ばれる行動です。
例えば、行列ができているレストランを見て、「人が並んでいるのだから、ここはいいレストランに違いない」と考えて、人々が次々に行列に並ぶ―そのような行動がハーディングです。
自分の過去の行動に従うのは、ハーディングの行列に並ぶのと同じです。このような選択は、自分自身の後ろに並んで、行列の2人目、3人目になったということなのです。

そんなことを繰り返しているうちに、自分は好きでそうしているのだという思いが強まっていきます。そして、スタバでコーヒーを飲むのがいつしか習慣になる。
そうこうするうちに、より大きなサイズのコーヒーを頼んだり、別の飲み物を頼んだりするようになるかもしれません。

もし冷静に考えれば、なじみだったドーナツ屋の安いコーヒーを飲む、あるいは職場で無料で飲めるコーヒーにする、という選択もあるはずです。そう考えれば、スタバに出費し続ける必要があるのかと、自分に問い直す気持ちも湧いてくるはず。

ところが、ここまでくると、過去に同じ決断を何度もしてきたことが根拠となり、これこそが自分の望む選択だと信じて疑わなくなっているのだと、アリエリー博士は述べています。

アンカーが変わったのはなぜ?

ここで、1つの疑問があります。
最初はなじみのドーナツ屋のコーヒーの値段にアンカリングされていたのに、どうしてアンカーがスタバの値段に移ったのでしょうか。

アリエリー博士はこんなふうに説明しています。
スタバの創業者、ハワード・シュルツは直観に優れた実業家でした。価格ではなく雰囲気で、スタバを他のコーヒーショップとは一線を画す店にすべく、ヨーロッパのコーヒーハウスのような空間を目指してさまざまな工夫をしました。

炒りたての高級豆の香り、しゃれたコーヒープレス、見栄えのする軽食やケーキ・・・。それにサイズも、ショート、トール、グランデ、ベンディと各種取り揃え、マキアートやフラペチーノなど特別な名前の飲み物も提供しました。

こうして、スタバでの経験が、他のコーヒーショップでの経験とはかけ離れたものになるようにと、さまざまな構想を練ったのです。そうすることで、他のコーヒーショップの手頃な価格に捉われることなく、スタバが用意した新しいアンカーをすんなり受け入れてもらえるように。

これがスタバの成功に大いに貢献していると博士は分析しています。

黒真珠はなぜ高級品なのか

黒真珠は高級品として定着しています。
それはなぜでしょうか。
それは、黒真珠を高級にした男性がいたからです。

価格がないものを高級品に

第二次世界大戦後、2代にわたって真珠の取り引きに成功し、「真珠王」と呼ばれた人がいました。サルバドール・アセールです*4
その彼に、黒真珠の商売をもちかけた人がいました。
当時、タヒチは黒真珠の宝庫でしたが、ニーズも販路もまったくありませんでした。
そこで、ふたりは手を組み、黒真珠を採って世界中に売りさばくことにしました。

しかし、セールスはうまくいきません。では、アセールはどうしたでしょうか。
より品質のよい真珠ができるのを待って、伝説の宝石商ハリー・ウィンストンに持ち込んだのです。ウィンストンはニューヨーク五番街のショーウインドウに黒真珠を飾り、驚くほど高い値札をつけることを承諾しました。

一方、アセールは、豪華なグラビア雑誌に全面広告を出します。タヒチ産の黒真珠のネックレスの傍らには、ダイヤモンドとルビー、エメラルドをあしらったブローチ・・・。

こうして、ニーズも販路もなかった黒真珠が、あっという間に高級品となり、ニューヨークのセレブたちがこぞって求めるようになりました。
アセールは、価格のなかったものを、とびきりの高級品に変えてしまったのです。

どうしてこのようなことが可能になるのでしょうか。

刷り込み

アセールは最初から黒真珠を世界最高級の宝石としてアンカリングしました。そのおかげで、それ以来、黒真珠は高級品としての地位を守っています。
このように、私たちは、新製品をある価格で買うと、その価格にアンカリングされるのです。

ここで重要なのは、1つの品物の金額が決まると、それが恣意的なものであってもアンカーとなり、同じカテゴリーの別の品物にいくら出すのかもそのアンカーとの比較で判断されるということです*5

私たちは実生活でさまざまな商品の価格を目にしています。それぞれの商品に業者の希望小売価格がついていて、その商品やサービスをその価格で買おうとしたとき、それらの値段がアンカーになります。

そこから刷り込みが始まります。アンカーが原点となり、常にそれを参照することになるのです。
アンカリングは、どのような買い物にも影響を及ぼすとアリエリー博士は指摘します。

例えば、たいていの人は、それまで住んでいた市町村で払った住宅価格をアンカーとして、相場がより安い都市や、逆により高い都市に引っ越しても、それまでの相場で払っていたのと同じくらいの金額しか出さないことがわかっています。

このように、1つのアンカーが、その後何年にもわたって決断に影響を与え続けることも珍しくありません。

アンカリングの効果と危険性

伝統的な経済学の枠組みでは、製品の市場価格は需要と供給の均衡で決まると考えられています*6

しかし、実際には、上述のように、消費者が払ってもいいと考える金額は簡単に操作されてしまいます。消費者はさまざまな品物や経験に対する選択や購入する際の価格を、自分の思い通りには制御できていないのです。

価格は、業者の希望価格や広告価格、マーケティング、製品の市場投入からつくられるものであって、それをコントロールしているのはすべて供給側です。
このように、消費者の支払い意思が市場価格を左右しているのではなく、市場価格の方が消費者の支払い意思を左右している側面があると、アリエリー博士は指摘します。

私たちの選択が、たまたま遭遇した最初のアンカーに影響され、あるいはスタバのように次のアンカーに影響されることも少なくありません。それは何を意味しているのでしょうか*7

それは、私たちの選択も、私たちが関与する売買も、その品物から実際に得られる満足感や効用を正しく反映しているとはかぎらないということです。
消費者は、個々の商品やサービスから得られる満足度を正確には測れず、そのかわりに恣意的なアンカーにしたがってしまう傾向があるのです。

市場には、本当は多くの満足を与えてくれるけれどアンカーが低いものも、実際にはそれほど満足を与えてくれないけれどアンカーが高いものもあります。しかし、アンカリングの効果が絶大のため、消費者にはそれらの本当の価値を判断するのが難しいという状況が生じています。
そのことは、消費者の選択や売買が、必ずしも消費者の幸せにはつながらない場合があることを示唆しています。

これまでみてきたように、アンカリングはさまざまな分野のマーケティングに活用されています。
それが絶大な効力をもつものだけに、マーケターはその活用方法を熟慮し、その売買が消費者の幸せに貢献することを目指す必要があるのではないでしょうか。

この記事を書いた人

横内美保子

博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。専門は日本語学、日本語教育。
高等教育の他、文部科学省、外務省、厚生労働省などのプログラムに関わり、日本語教師育成、教材開発、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティアのサポートなどに携わる。
パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。

*1:出所:大竹文雄(2020)『行動経済学の使い方』(岩波新書 電子書籍版)p.42, p.152

*2:出所:オリヴィエ・シボニー著 野中香方子訳(2021)『賢い人がなぜ判断を謝るのか?』 日経BP(電子書籍版) pp.93-95

*3:出所:ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳(2014)『予想どおり不合理』(電子書籍版)早川書房 pp.71-75

*4:出所:ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳(2014)『予想どおり不合理』(電子書籍版)早川書房 pp.56-58

*5:出所:ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳(2014)『予想どおり不合理』(電子書籍版)早川書房 pp.63-65

*6:出所:ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳(2014)『予想どおり不合理』(電子書籍版)早川書房 pp.81-82

*7:出所:ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳(2014)『予想どおり不合理』(電子書籍版)早川書房 p.84