社会を取り巻く「情報環境」を見直すと、私たちが置かれている情報環境には「偏食」が認められる。
情報の偏食を改善し、個人的にも社会的にも、情報の適度なバランスを意識する「情報的健康(インフォメーション・ヘルス)」を取り戻すことが非常に重要だ。
こうした共通認識のもと、東京大学の鳥海不二夫教授と慶應義塾大学の山本龍彦教授は2022年1月、「健全な言論プラットフォームに向けて ―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」を共同で提言しました。
この宣言の中で特に問題にされているのが、「アテンション・エコノミー(関心経済)」と呼ばれるビジネスモデルと、事業者の経済的利益を最大化するアルゴリズムがもたらす弊害です。
「デジタル・ダイエット宣言」には、デジタルマーケティングが主流の現在、健全なマーケティングを実現するために欠かせない情報も含まれています。
それはどのようなものでしょうか。
アテンション・エコノミーの何が問題なのか
「デジタル・ダイエット宣言」で問題にされているアテンション・エコノミーとはどのようなものなのか、またその何が問題なのか押さえていきましょう。
アテンション・エコノミーとは
私たちは情報過多の社会を生きています。*1 *2
インターネットとSNSの普及によって誰もが情報を発信できるようになったため、情報量が激増し、私たちは夥しい量の情報を絶えず浴びています。
情報は圧倒的に供給過剰となっていて、その情報量に比べると、私たち消費者が支払うアテンション(関心)や消費時間は希少です。そのため、消費者のアテンションは経済的価値をもち、アテンション・マーケットで流通しています。
アテンション・エコノミーとはこうした経済モデルを指します。
現在はスマートフォンの普及で、私たちはますますアテンション・エコノミーに支配されるようになっています。
2つの認知システムとアテンション・エコノミー
では、なぜこのアテンション・エコノミーが問題なのでしょうか。
心理学では、人間の思考モードには、以下のように2つのシステムがあると言われています。*3
<システム1>
- 自動的に高速で働く
- 努力はまったく不要か、必要であってもわずか
- 自分でコントロールしている感覚は一切ない
<システム2>
- 複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動
- 代理、選択、集中などの主観的経験と関連付けられる
この2つのシステムのうち、私たちは基本的にシステム1で動いているとされます。*4 *5
そこで、システム1を刺激し、どれだけ関心を奪えるかを競って広告収入につなげようとするアテンション・エコノミーでは、重要さ、正しさよりも、面白く、より多くの人々の興味を引く情報を提供しようとする傾向があり、これが問題なのです。
たとえば、総務省の調査では、「新型コロナウイルスに関する間違った情報や誤解を招く情報を共有・拡散した理由」として、「情報の真偽に関わらず、その情報が興味深かったから」と回答した人が32.7%に上り、 情報の真偽が不明な場合でも共有・拡散する⼈が⼀定数いることがわかっています(図1)。*6
このようなアテンション・エコノミーは、放任しておくと、対話や熟議の資源となる「システム2」の思考を減退させ、「システム2」を前提とする民主主義を危険にさらすおそれがあると、「デジタル・ダイエット宣言」は警告しています。*7
フィルターバブルとエコチェンバー
こうしたアテンション・エコノミーが発達した社会では、「サイバーカスケード」に警戒する必要があります。
サイバーカスケードとは
「カスケード」とは、階段状に水が流れ落ちていく滝のことです。人々がインターネット上のある1つの意見に流されていき、それが最終的には大きな流れとなることを「サイバーカスケード」と呼びます。*8
ネット上の情報収集では、同じ思考や主義を持つ者同士をつなげやすいというインターネットの特徴から、「集団極性化」を引き起こしやすくなることが指摘されています。
集団極性化とは、例えば集団で議論すると、議論後、人々の意見が特定方向に先鋭化するような現象を指します。
議論の場には自分とは違う意見の人がいるはずなので、ふつうに考えると議論することで自分とは反対の意見も取り入れられるはずです。
ところが、実際に実験を行ってみると、議論後、逆に意見が先鋭化する例が多くみられたのです。
もともとある、こうした人間の傾向と、ネットメディアの特性が相互作用して生じる現象には、「フィルターバブル」と「エコーチェンバー」があります。
フィルターバブルとは
「フィルターバブル」は、アルゴリズムがネットユーザーの検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、望むかどうかにかかわらず、ユーザーが見たい情報が優先的に表示されることによって起こります。*9
すると、ユーザーは、自身の観点に合わない情報から隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立することになります。こうした情報環境がフィルターバブルです。
広告主にとっては、ユーザーごとにパーソナライズするアルゴリズムを用いることは、顧客獲得コストを低下させる効果的な広告戦略です。
またユーザーにとっても、自分の好みの情報が少ないエネルギーで手に入るという利点があります。
ただし、フィルターバブルの内側にいると、表示された情報がどれほど偏向しているのか、または情報が偏向のない客観的真実であるのかが分からないという問題があります。
マーケティングの権威、フィリップ・コトラー博士は、マーケターはデジタル化がもたらす可能性を信じている人々とそうでない人々とのデジタル・デバイド(情報格差)を解決しなければならないと述べています。*10
そして、多くの人に不安を抱かせるデジタル化の脅威の1つに、フィルターバブルを挙げ、
フィルターバブルによって事実と嘘を区別するのがかつてより難しい「ポスト真実」の世界が登場したと指摘します。*11
AIを活用すれば、本物のように思える偽音声や偽画像を簡単に作成できる時代なのです。
デジタル・ディバイドを埋めるためには、この問題に対処する必要があるというのが博士の考えです。
問題はほかにもあります。
フィルターバブルの内側にいることをユーザー自身が選んだわけではないという問題です。*12
ユーザーが自ら選択してフィルターを使用しているのではなく、避けようにも避けがたい状態なのです。
このようにフィルターバブルは広告主にとっては都合がよく、ユーザーにとっても楽な側面がある一方で、それぞれのユーザーが意図せずとも好みの情報で包まれ、異なる見解を結果的に遠ざけてしまうという問題、そして「ポスト真実」の問題があります。*13
エコーチェンバー
SNSを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローした結果、SNSで意見を発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、「エコーチェンバー」といいます。*14
閉じた小部屋(チェンバー)で音が反響する物理現象(エコー)にたとえたものです。
この反響によって、何度も同じ意見を聞くことで、それが正しいとより強く信じ込んでしまうおそれがあります。
フィルターバブルやエコーチェンバーにより、集団分極化は加速し、人々は考えが異なる他者を受け入れられず、話し合うことを拒否するような状況が生じます。*15
この2つの現象は、こうして社会の分断を引き起こし、民主主義を危険にさらす可能性があると、「デジタル・ダイエット宣言」は指摘しています。
ソリューションのために
では、問題解決のためにどうすればいいのでしょうか。 「デジタル・ダイエット宣言」では以下のように提言しています。
アテンション・エコノミーに代わる経済構造の検討
現在の言論空間はアテンション・エコノミーにほぼ支配され、デジタルプラットフォーム事業者だけでなく、ユーザー、マスメディア、広告主もがその渦に巻き込まれており、これまでみてきたような弊害は、その必然的な結果です。*16
こうした状況を脱するためには、アテンション・エコノミーに代わる経済構造を模索・検討する必要があります。
そのために領域横断的な議論を行いつつ、まずは、アテンション・エコノミーの枠組みを基本的に維持した上で、PV数(ページ閲覧数)といった単純な指標ではなく、その質によってコンテンツを評価し、その評価に応じて対価が支払われるようなサブシステム構築を模索すべきです。
ユーザーの認識
電通総研の調査によると、日本における「アテンションエコノミー」「フィルターバブル」「エコーチェンバー」の認知度はまだ低く、どれも2割以下です。*17
ユーザーは「アテンション・エコノミー」という経済モデルを理解し、私たちがその中に組み込まれているという事実を認識することが問題解決の第一歩です。
そのために有益な「エコーチェンバー可視化システムβ版」というツールがあります。*18
「デジタル・ダイエット宣言」の提言者の1人、鳥海教授が作成したもので、このツールを利用すると、自身がTwitterでどこのコミュニティに属しており、どのくらい偏りがあるかを知ることができます(図2)。*19
筆者も試みに、このツールを使って自身のエコーチェンバー度を測ってみたところ、タイムライン、ツイート、フォロー、リツイート、タイムライン上位頻度ユーザーなど、さまざまな側面からエコチェンバー度が把握できました。その結果、筆者もエコーチェンバーの中にいる可能性が高いことが把握でき、大変有益でした。*20
まだの方は一度、活用してご自身の傾向を把握なさってはいかがでしょうか。
事業者・マスメディア・ジャーナリストの留意点
デジタルプラットフォーム事業者は、フィルターバブル対策として、パーソナライズ化されていない情報をランダムに意図的に提供することによって、ユーザーに多様な情報を提供する機能を構築すべきです。*21
また、マスメディアもPV獲得のために、注目をひくエンターテインメント性の高い記事や、「システム1」にうったえかける刺激性の強い記事を重視する傾向が見られますが、公共性を自覚し、アテンション・エコノミーの論理から距離をとるよう努めるべきです。
さらに、ジャーナリストも、公共性をもった自律した専門家として、アテンション・エコノミーを冷静にみつめ、適切に職務を遂行すべきです。
今後はコンピュータ・サイエンティスト、法学、経済学、社会心理学、精神医学などさまざまな分野の専門家が参画して、学際的・領域横断的に「情報的健康」の実現に向けた議論を行うことが期待されています。
*1:共同提言「健全な言論プラットフォームに向けて―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」|鳥海不二夫・山本龍彦 p4
*2:「情報的健康」へデジタル・ダイエット宣言…[情報偏食]第1部<特別編>|讀賣新聞オンライン p1
*3:共同提言「健全な言論プラットフォームに向けて―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」|鳥海不二夫・山本龍彦 p4,6
*4:「情報的健康」へデジタル・ダイエット宣言…[情報偏食]第1部<特別編>|讀賣新聞オンライン p2
*5:共同提言「健全な言論プラットフォームに向けて―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」|鳥海不二夫・山本龍彦 p5
*6:新型コロナウイルス感染症に関する情報流通調査|総務省 p.21
*7:共同提言「健全な言論プラットフォームに向けて―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」|鳥海不二夫・山本龍彦 p4
*8:令和元年版 情報通信白書 第1部 第4節 デジタル経済の中でのコミュニケーションとメディア インターネット上での情報流通の特徴と言われているもの|総務省 p102
*9:令和元年版 情報通信白書 第1部 第4節 デジタル経済の中でのコミュニケーションとメディア インターネット上での情報流通の特徴と言われているもの|総務省 p103
*10:コトラーのマーケティング5.0 デジタル・テクノロジー時代の革新戦略|朝日新聞出版 p25
*11:コトラーのマーケティング5.0 デジタル・テクノロジー時代の革新戦略|朝日新聞出版 p104,106,107
*12:令和元年版 情報通信白書 第1部 第4節 デジタル経済の中でのコミュニケーションとメディア インターネット上での情報流通の特徴と言われているもの|総務省 p103
*13:「情報的健康」へデジタル・ダイエット宣言…[情報偏食]第1部<特別編>|讀賣新聞オンライン p1
*14:令和元年版 情報通信白書 第1部 第4節 デジタル経済の中でのコミュニケーションとメディア インターネット上での情報流通の特徴と言われているもの|総務省 p102
*15:「情報的健康」へデジタル・ダイエット宣言…[情報偏食]第1部<特別編>|讀賣新聞オンライン p3
*16:「情報的健康」へデジタル・ダイエット宣言…[情報偏食]第1部<特別編>|讀賣新聞オンライン p3
*17:電通総研コンパスvol.10 情報摂取に関する意識と行動調査|電通総研
*18:メディア情報リテラシー向上施策の現状と課題等に関する調査結果報告|総務省 p87
*21:共同提言「健全な言論プラットフォームに向けて―デジタル・ダイエット宣言 ver.1.0」|鳥海不二夫・山本龍彦 p13,17,18,20