疲れを感じていても、なんとなく「気持ち」で疲れを抑えて無理を重ねてしまい、結果として体を壊してしまう。周囲の空気を必要以上に読み過ぎてしまい、強がって体の辛さを隠してしまう…
職場ではよくあることです。しかし、良いこととはいえません。
しかし、「脳波」は嘘をつきません。純粋な生体反応であり、気持ちで制御できるものではないからです。
その「脳波」を直接捉えて、社員の体調管理やマーケティングにいかす「ニューロテクノロジー」に注目が集まっています。
「疲労」がもたらしてきた大きな代償
疲労や睡眠不足が社員、ひいては組織の生産性を下げてしまうことは多くの方が認識していることと思います。
例えば鉱山、建設、トラック輸送、航空などの現場では、デューク大学の法学・哲学特任教授であるNita A. Farahany氏が、過去にこのような事例があったことを紹介しています。
シカゴでは、交通局が運行する列車がオヘア国際空港駅で運転士の居眠りにより脱線し、エスカレーターに乗り上げて32人が負傷した。ニューヨークでは、ポキブシーとマンハッタンのグランドセントラル駅を結ぶ通勤列車の運転士が、睡眠不足のため運転中に居眠りをした。列車は制限速度が時速30マイル(約48キロ)のカーブに82マイル(約131キロ)で侵入して脱線し、4人が死亡、70人が負傷して数百万ドルの損害を出した*1。
他にもフロリダ州ではリン酸塩を満載した100両の貨物列車の機関士が居眠りして石炭列車と正面衝突した事故があります。貨物列車は32両が脱線、1346トンの石炭、1150トンのリン酸塩、7400ガロン(約2万8000リットル)のディーゼル燃料、77ガロン(約300リットル)のバッテリー酸がばらまかれました。 かつ、航空事故はまれではあるものの、過去数十年で発生した航空機墜落事故のうち、少なくとも16件の重大事故はパイロットの疲労が原因とされている、ということです*2。
顧客の命を直接扱う業種でなくとも過労による精神疾患がフォーカスされる中、社員の疲労を正しく把握するのは企業にとって重要な責務です。
とはいえ、そう簡単にはいかないのもまた現実です。
本人の性格によっては「まだ大丈夫」と周囲に言ってしまうこともありますし、職務環境上弱音を吐きづらい立場の人もいることでしょう。
しかし、脳波はそのようにウソやごまかしをしません。この「脳波」にアプローチするのがニューロテクノロジーの世界です。
ニューロテクノロジーの事例
2019年、驚くべき宣言をしたのは米スマートキャップのCEOティム・エカート氏です。
ティム・エカートは大胆な宣言をした。同社の旗艦ツールであるライフバンドー脳波測定センサーを内蔵し、単独またはヘルメットやキャップ帽に取りつけて装着できる疲労治療ヘッドバンドーが「米国のトラック輸送業界を革新する」と打ち出したのである*3。
スマートキャップ社の製品はこのようなものです。
肝になるのは2番目の「スマートバンド」です。各種脳波を測定するこのベルトを、ヘルメットならヘルメット、帽子なら帽子、そうでなくても直接頭部に装着することで、脳波から疲労の度合いを測定・追跡します。この脳波データを独自のアルゴリズムで処理し、バンドを装着している社員の疲労度を1(過覚醒)から5(不随意睡眠)の尺度で判定します。従業員が睡魔に襲われていることを感知すると、従業員と管理者の双方に警告を発信する、というしくみになっているのです。
このような脳波を利用したテクノロジーは広く関心を集めています。マサチューセッツ工科大学のメディアラボは、メガネやスカーフ型のデバイスに内蔵した脳波測定センサーを使って人々のエンゲージメントを測定するシステムを開発しました。エンゲージメントが低下すると、デバイスが振動などの形でフィードバックを返すというものです。
その結果、フィードバックを受けた人は受けなかった人よりも高い注意力スコアを記録したといいます*4。
脳波や血流情報の利用はマーケティングでも
このように脳の動きを脳波や血流といった現象をもとに追跡することで、人の頭が環境やモノに対してどう反応しているかを分析する技術は、マーケティングにも応用されつつあります。
東北大学と日立ハイテクが合同で設立した株式会社NeU(ニュー)では、脳科学をマーケティングに繋げたいくつかの事例があります。
企業ロゴの印象評価
まずひとつは、企業のロゴに関するものです。
株式会社QUICKへのニューロマーケティング支援として、16種類のロゴの中からどのデザインが「記憶」「共感」を強く得られるかを測定し、新しいロゴデザイン決定の参考にしています。
POP表示と売上の関係
また、小売店でのPOPの効果を調べた事例もあります。この調査では、POP表示と売上データの関連性を示唆する結果が得られています。
実験室でPOPを見た時に、人の情動に関する部位が活性化されている「おこわ」では、実際の店頭での売上データにPOPの存在が反映された、というわけです。
「脳内」という個人情報には留意が必要
このように見てくれば、脳波や脳の活動を計測することは、人の「本音」そのものを覗き見ることができる魔法の道具のように感じられるかもしれません。実際そのような時代がやってくるかもしれません。
しかし、懸念すべきこともあります。
まず脳に関するこれらの情報は、ある意味では究極の個人情報といえる点です。
よってこうした技術を用いるにあたっては、現在は厳密な法整備がなくても、強制でないことや被験者の事前の了承が必要になってくることでしょう。
そして職場でこのようなデバイスを利用するにあたっては、前出のデューク大学・Nita A. Farahany氏がこのような懸念を示しています。
問題は、脳と生産性を結びつけるテクノロジーの使用を従業員に強制し、注意力を生産性測定の基準にしようという組織があるかもしれないということだ*5。
従業員が自ら自己管理のためにこうした技術を利用するのは好ましいことではありますが、懲罰的な意味合いを持ってしまえば問題になることでしょう。
相手が実際に何を考えているか、その頭の中はどうなっているのか、これは仕事の効率向上やマーケティングにあたってはもちろん知りたいものです。
ただ、便利なテクノロジーほど悪用される可能性が高いのもまた事実です。
一定の規律のもと、最新技術を前向きにうまく取り入れていく方法を模索したいものです。
*1:「ハーバード・ビジネス・レビュー」2023年7月号 p34
*2:「ハーバード・ビジネス・レビュー」2023年7月号 p34
*3:「ハーバード・ビジネス・レビュー」2023年7月号 p33-34
*4:「ハーバード・ビジネス・レビュー」2023年7月号 p36
*5:「ハーバード・ビジネス・レビュー」2023年7月号 p37