製薬マーケティングのROIは、なぜ見えにくいのか
「処方につながったか」を可視化するための設計論点
この記事の要点
製薬マーケROIが見えにくい本質は、施策と処方の間で接点・活動・患者データが分断していることです。
製薬業界でマーケティングの投資対効果を考えるとき、よく聞かれるのが、
「この施策は、どれだけ処方につながったのか」
という問いです。
もっとも、この問いに正面から答えようとすると、多くの企業が立ち止まります。
メールの開封率やWeb講演会の参加者数は見えていても、それが実際の処方や治療継続にどう結びついたのかまでは、はっきり見えない。そんな悩みを抱えるケースは少なくありません。
この問題は、単に分析が足りないから起きているわけではありません。
本当の難しさは、マーケティング施策の先にある医療従事者との接点、MR活動、患者さんの受診や継続、そして処方データが、ひと続きで見える形になっていないことにあります。
つまり、「施策の結果が見えない」のではなく、「施策から処方までの流れが分断されている」ことが、製薬マーケティング特有の壁になっているのです。
実際、製薬企業のマーケティング効果は、メール配信やWeb講演会などのデジタル施策だけで決まるものではありません。医療従事者との複数の接点、MRによるフォロー、患者さんが実際に治療へ進むかどうか、さらに治療を継続するかどうかまで含めて見なければ、投資対効果の全体像はつかめません。
だからこそ、製薬マーケティングにおけるROI可視化は、単なるレポートの問題ではなく、何を成果とみなすか、どのデータをどうつなぐか、どの単位で評価するかという“設計の問題”として捉える必要があります。
本稿では、製薬マーケティングのROIが見えにくくなる理由を整理したうえで、
なぜ「処方」だけでは成果を測りきれないのか
日本で使えるデータにはどのような制約があるのか
MRを含む複数接点の時代に、どのような測定設計が現実的なのか
KPIを活動量中心から成果中心へどう見直すべきか
という論点から、製薬マーケティングROI可視化の設計ポイントを考えていきます。
「処方につながったか」が見えにくいのは、施策の記録がないからではない
製薬企業は、メール配信、Web講演会、ブランドサイト、広告接触など、施策の記録そのものはかなり持っています。それでもROIが見えにくいのは、施策データが不足しているからではありません。問題は、医療従事者との接点、MR活動、処方、患者さんの継続使用といった情報が別々に存在し、その間が分断されていることにあります。IQVIAは、従来の指標だけでは部分的な見え方にとどまり、真にROIを把握するには、マーケティング接点と処方の世界をつなぎながら、患者さんの流れや治療継続まで見ていく必要があると述べています。※1 ※2
ROIの基準は「処方」だけでは設計できない
製薬マーケティングのROI設計で最初に見直すべきなのは、何を成果とみなすかです。ある製品では新規処方件数が重要かもしれませんが、別の製品では継続使用率や治療離脱の抑制のほうが重要かもしれません。IQVIAは、処方そのものだけでなく、患者さんが診断から治療に進む流れ、治療開始の障壁、治療中断、継続使用まで含めて見ないと、投資対効果の実態を外しやすいとしています。つまり、処方は重要な指標ではあるものの、それだけを最終成果に置くと、施策の本当の意味を取りこぼしやすいのです。
そのため実務では、成果指標を一段で置くのではなく、反応を見る指標、先行成果を見る指標、事業成果を見る指標の三層で考えるほうが現実的です。たとえば、深いコンテンツ閲覧やWeb講演会の完了視聴を「反応を見る指標」、MRフォロー完了率や重点施設での浸透を「先行成果を見る指標」、新規処方や継続使用を「事業成果を見る指標」として分けて考えるやり方です。Axtriaも、製品ごとの成果責任を持つマーケティング担当者は、活動量よりも、顧客体験、関与度、影響度、満足度といった顧客行動に近い指標を見るべきだと整理しています。※3
リアルワールドデータ活用とは何か
ここで重要になるのが、リアルワールドデータ活用です。リアルワールドデータ活用とは、電子カルテやレセプトなど、日常診療の中で蓄積される医療データをもとに、薬の使われ方や患者さんの治療実態を把握し、施策や戦略の判断に役立てることです。FDAは、リアルワールドデータを「患者の健康状態や医療提供に関して日常的に収集されるデータ」と定義し、そこから得られる臨床的な知見をリアルワールドエビデンスと説明しています。つまり、臨床試験のために新しく集めるデータではなく、実際の医療現場で自然に蓄積されているデータを活用する、というのがポイントです。※4
日本では「使えるデータ」の限界を前提に設計しなければならない
もうひとつ重要なのは、日本で実際に利用できるリアルワールドデータやレセプトデータには、明確な限界があるという点です。McKinseyは、日本の第三者データベースについて、医療機関ベースのデータは患者さんが別の医療機関に移ると追跡しづらく、保険者ベースのデータは高齢者の代表性に弱みがあり、調剤ベースのデータは診断情報が不足しやすいと整理しています。さらに、日本の薬価制度、償還制度、アクセスの仕組みそのものが、米国と比べて実務上使える分析テーマを狭める面があると指摘しています。※5
つまり、日本では「ひとつのデータベースですべてを見切る」前提で設計するのは難しいということです。データの種類ごとに、追跡しやすい対象、得意な分析、弱い領域が異なるため、目的に応じて組み合わせる発想が必要になります。加えて、IQVIA Japanが公開している保険者レセプトデータでも、毎月更新ではあるものの、反映は「3か月後から」とされています。処方データは重要ですが、常にすぐ使える成果指標とは限りません。短い周期で施策を調整したい現場にとっては、この時間差も大きな制約になります。※6
MRを含む複数接点の時代には、単純な「どの施策が効いたか」が通用しにくい
製薬マーケティングのROI可視化が難しい大きな理由のひとつは、接点が複雑に重なっていることです。現在の製薬企業では、MR訪問、講演会、メール、ブランドサイト、第三者メディア、非対面営業など、さまざまな接点が並行して動いています。このような環境では、「最後に接触した施策が成果を生んだ」といった単純な見方は現実に合いません。McKinseyは、医療従事者ごとに最適な接点の組み合わせを考えるには、複数チャネルをまたいだ全体像の把握が不可欠だと述べています。
ZSも、従来の比較対象を置く測定方法が機能しにくくなっている背景として、顧客行動の分断、複雑な複数チャネル運用、規制対応の厳しさを挙げています。重要なのは、個々の施策を単発で採点することではなく、接点の積み重ねの中で、どの活動がどんな変化を生んだのかを段階的に見ることです。日常的に顧客全体像を捉える基盤があり、そのうえで施策ごとの上積み効果を見て、一定期間ごとに全体配分を見直す。そうした多層的な設計にしないと、オムニチャネル時代の実態には追いつきません。※7
KPIを「活動量」から「成果」に近づける必要がある
最後に見直すべきなのが、製品ごとの成果責任を持つマーケティングチームが何をKPIとしているかです。いまの製薬マーケティングでは、配信数、開封率、クリック率、参加者数といった指標が多く使われています。もちろん、これらは日々の運用には必要です。ただし、これだけでは「処方に近づいたのか」「営業活動につながったのか」はわかりません。pharmaphorumは、問題はチャネルの不足ではなく、成果を測る指標が古いことにあると指摘しています。※8
Axtriaも、役割ごとに見るべき指標は違うと整理しています。たとえば、施策を配信・運用する担当者は実行量や到達率を見る必要がありますが、製品戦略を担う側は、顧客の行動変化や事業成果に近い指標を見るべきだという考え方です。つまり、開封率やクリック率をなくすのではなく、それらを「実行管理の指標」に位置づけ直し、製品ごとの成果責任を持つ側は、より成果に近い指標に責任を持つことが重要なのです。実務上は、週次では実行状況を見る指標、月次では顧客反応を見る指標、四半期では事業成果や予算配分を見る指標、というように、時間軸と意思決定の階層に応じて指標を分けるのが現実的です。
まとめ
製薬マーケティングのROIが見えにくいのは、施策が処方から遠いからではありません。本当の理由は、処方の前後にある医療従事者との接点、MR活動、患者さんの受療や継続、そしてそれらを支えるデータが分断されていることにあります。だからこそ必要なのは、ダッシュボードを増やすことではなく、何を成果とみなすかを再定義し、使えるデータの限界を踏まえ、MRを含めた測定設計をつくり、KPIを活動量中心から成果中心へずらすことです。製薬マーケティングのROI可視化は、分析の問題であると同時に、設計の問題でもあります。
以下のコラムのご覧ください。
製薬マーケティングROI可視化の4類型とは?
マーケティングコンサルタント
山下 智
マーケティング戦略策定
Webコーダー/Webデザイナーからキャリアをスタート。その後、Webディレクターとして数多くの企業サイトの企画~設計~制作を手掛ける。
2014年に自社へのMarketo導入の推進をきっかけに、マーケティングオートメーションを専門とするコンサルタントへキャリアチェンジ。
現在は、事業会社のマーケティングDXの支援や、データマネジメントの仕組みや組織体制づくり、人材育成まで、データを活用したマーケティングの幅広い伴走コンサルティングを得意とする。特に、製薬および医療機器メーカーの支援に強みを持つ。
無類のクラフトビール好き。 No Beer! No Life!
参考にした公開情報
※1 McKinsey & Company「Demystifying the omnichannel commercial model for pharma companies in Asia」
※2 IQVIA「Uncovering Channel ROI: Proving What Works in HCP Engagement」
※3 Axtria「Measuring Pharma Omnichannel Effectiveness: A Role-Driven Approach」
※4 FDA「Real-World Evidence」
※5 McKinsey & Company「Advancing real-world evidence for pharmaceutical companies in Japan」
※6 IQVIA Japan「Claims Data」
※7 ZS「Synthetic Test and Control: Pharma impact measurement」
※8 pharmaphorum「Omnichannel didn’t fail biopharma. Our metrics did.」
引用元には、グローバル戦略コンサルティングファーム、医療・製薬業界向けデータ企業、規制当局、業界専門メディアなどが含まれます。
McKinsey & Company:グローバル戦略コンサルティングファーム。
IQVIA:医療・製薬分野に特化したデータ/分析企業。
Axtria:ライフサイエンス向け分析・商用支援企業。
ZS:ヘルスケアに強みを持つコンサルティング/テクノロジー企業。
FDA:米国の規制当局。
pharmaphorum:製薬業界の専門メディア。



